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名胡桃城事件と北条氏の滅亡(1589-1590年)

名胡桃城の奪取事件

天正17年(1589)11月、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が突如として真田の属城である名胡桃城を襲撃し、城将の鈴木主水を殺害する事件が起きた。

『加沢記』によれば、鈴木主水の妻の弟(異説もあり)とされる名胡桃城番衆の中山九兵衛が北条方に調略され、真田昌幸の偽の命令書をこしらえて鈴木主水に渡し、主水を岩櫃城へ向かわせている隙に、中山九兵衛が北条軍を招き入れて乗っ取ったという。
だまされたことを知った主水が名胡桃城に引き返したものの、時すでに遅し。彼は中山と刺し違えようとしたが果たせず、沼田城下の正覚寺で自害したという。

このとき、昌幸は上洛中で秀吉のもとにおり、この事件はその日のうちに真田信幸から家康を介して秀吉へと報告されたらしい。

これを聞いた秀吉は激怒し、北条氏が停戦命令を無視して上野国で戦いを続けていたこと、上洛要請に応じていないこと、 さらにこの事件が起きたことなどから、惣無事令(私闘を禁じた法令)違反として北条氏の討伐を決意した。

これに対し、北条方は名胡桃城奪取事件について以下のように秀吉に弁明した。

  • 北条氏政の上洛は予定通り、来年正月中に実施するつもりだ。
  • 家康の上洛時に大政所が人質として三河に下向したときのような保証がほしい。
  • 氏政が上洛しても京都で人質となり、責任をとらされるか北条氏の国替の命をうけるという 噂があるため、安心して氏政を送りだせない。
  • 弁明の使者・石巻康敬を拘留したことは不当で、真田昌幸の言い分だけを信じるのは無念である。

こうした状況の中、北条氏は事態の深刻さを理解しておらず、家中で北条氏規だけが唯一、書状で徳川重臣の酒井忠次宛てに、「北条氏はもはや末期である」との旨を伝えて嘆いている。

結局、秀吉は北条氏の懸命の弁明をすべて退け、同年11月21日には昌幸に対して以下のように説明。

  • 犯人を成敗しない限り北条を赦免しない。
  • 境目の諸城に軍勢を配備し、来年春まで確保するように。
  • 必要があれば、小笠原貞政や北信濃の上杉軍を派遣する。

そして11月24日、「宣戦布告状」と称される朱印状を北条氏直に送り、他の諸大名にも通達した。

12月、北条氏政・氏直父子は家康に秀吉への取り成しの要望を書状で送ったが、家康はすでに上洛に向けて出発。13日には北条征伐の動員令が下された。

関東の覇者・北条氏が滅びる!

こうして天正18年(1590)2月、ついに小田原征伐が開始された。

豊臣政権下の諸大名が小田原に向けて進軍を始め、秀吉の命を受けた真田昌幸・信幸・幸村らは上杉景勝前田利家らの北国軍に属すこととなり、3月初旬にはそれぞれの合流(総勢3万5千余)が完了した。

一方の北条軍も北国軍の上野侵攻阻止に向け、3月15日には相木常林・伴野信番らを佐久郡に潜入させ、相木氏の旧領である白岩城で挙兵させ、碓氷峠の難所である磐根石には与良与左衛門らを配備した。
これに対し、北国軍は松平康国(依田信番の遺児)を派遣して白岩城を陥落させている。

また、碓氷峠は真田軍が先鋒として進軍し、信幸らが与良与左衛門らを撃破するとその後、北条重臣・大道寺政繁と遭遇して乱戦となった。このとき幸村は初陣で大道寺軍を壊乱させたという。
その後、碓氷峠を突破して松井田城下まで侵攻し、政繁が籠もる堅牢な松井田城を攻撃して激戦を繰り広げ、4月20日には大道寺政繁を降して同城を降伏開城させた。
続いて北国軍は上野の北条方の諸城を次々と攻撃し、重要拠点であった箕輪城を城兵のクーデターも手伝って無血開城とした。

箕輪城を占拠すると、昌幸らは秀吉から同城の仕置きを命じられた。真田軍はこの後、北条氏邦の居城の武蔵・鉢形城を包囲して6月14日に降伏開城、続いて6月22日に最後の目標である北条氏照の居城の八王子城を陥落させ、小田原城包囲軍に加わっている。

そして7月6日、万策の付きた北条氏はついに降伏し、小田原城は開城となった。

北条氏政をはじめ、北条氏照・松田憲秀・大道寺政繁らは開戦派とみなされて切腹。北条氏直は助命されたものの、家康の娘である督姫と離縁させられ、高野山へ追放となった。

こうして北条は滅亡し、秀吉による天下統一が達成されたのであった。


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