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豊臣大名としての真田氏(1590-1598年)

秀吉による関東と奥羽の再編

1590年(天正18年)、小田原征伐を終えた秀吉は東国の再編に踏み切った。徳川家康は北条氏の遺領の関東に移封され、旧徳川領は織田信雄に移封したが、信雄が難色を示して改易処分となったために秀吉一族や直臣を配置した。

一方で真田氏の信濃国は以下のような配置となった。

  • 佐久郡:仙石秀久
  • 小県郡:真田昌幸
  • 諏訪郡:日根野高吉
  • 伊那郡:毛利秀頼
  • 木曾郡:秀吉直轄領
  • 筑摩・安雲郡:石川康正

諏訪頼忠が諏訪郡から上野国惣社へ、木曾義昌が木曾郡から下総国阿知戸へ、保科正直が伊那郡高遠から下総国多古等、信濃国衆が次々と移封される中、真田昌幸だけは移封されずに信濃小県郡と上野国の沼田城を安堵された。これは極めて異例のことであった。

こうして昌幸は信濃小県郡を継続して支配することになり、信幸は前年の名胡桃城事件後に北条方に渡っていた沼田領を回復して沼田の大名として再出発することとなった。なお、信之はこの後、秀吉の命により沼田領の御座所の整備と街道の普請、検地等を実施している。
このほか、上杉従属期の旧領・信濃国の屋代は最新の研究で上杉氏に返されていることが判明している。また、信幸・幸村らが昌幸を通じて大阪の真田屋敷をそれぞれ拝領したことも、のちの関ヶ原直前の昌幸書状にて伺える。

一方でこの年、武田滅亡後に身を隠していた幸村の姉・村松殿の夫である小山田茂誠が昌幸を頼り、昌幸から村松郷の蔵納年貢を与えられている。また、幸村は安中平三に「名字」を与えていることから、この時期には既に幸村に家臣が存在していたとみられている。

天下統一後の真田一族の動向

関東平定を終えた秀吉は続いて東北平定に向けて奥州に進軍し、真田軍もこれに従った(奥州仕置)。 その後、この奥州仕置への反発で葛西氏・大崎氏ら旧臣による反乱(葛西大崎一揆)や翌1591年(天正19年)の九戸政実の乱などが勃発したが、いずれも平定され、真田父子も活躍したとされている。そして、これらを最後に真田家の戦役がなくなったとみられている。

以後、昌幸は国元の上田城と伏見城を往復するようになる。信幸は家康の与力大名として沼田城を支配する人物となるものの、完全な独立大名ではなく、父・昌幸とは不可分の位置付けであったといい、また、時期は不明(1587年(天正15年)ごろか?)であるが本多忠勝の娘・小松姫を娶っている。

幸村の結婚

幸村の活動については定かではないが、真田氏が豊臣政権下に降った後は人質として出されたとされており、時期は定かでないが大谷吉継の娘・竹林院を娶っている。

幸村がなぜ大谷吉継の娘を娶ったのかははっきりしないが、一般的には真田家と豊臣家のつながりを深める意図があり、秀吉の意で結ばれたということらしい。

幸村が大谷吉継の娘を娶ったヒントになる事柄を以下にあげてみる。

  1. 真田昌幸と石田三成は遠戚関係にあった。
  2. 大谷吉継と石田三成は遠戚関係にあった。
  3. 吉継は豊臣政権下で三成とともに活躍した有力な奉行職であった。
  4. 三成は豊臣政権下で真田家の取次役を担った。
  5. 幸村は秀吉の人質であったが、途中で出仕(秀吉の馬廻衆)に切り替わった。
  6. 幸村は秀吉から豊臣姓を許され、高い官職を受けた。

つまり、真田家は深いつながりのある三成を通して大谷吉継ともつながっていた。さらに幸村は秀吉に眼をかけられていたということであろう。

2人の結婚の時期については、NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する3人の歴史学者の見解があるので以下に紹介する。

  • 丸島和洋氏:天正年間(=1592年以前)とみている。大谷吉継は豊臣政権下で病(通説ではハンセン病)にかかり、政権を離脱している期間がある。このため、吉継が病に伏せる前の全盛期であった1592年(天正20年)以前の結婚であった可能性を指摘している。
  • 平山優氏:1594年(文禄3年)頃の説を妥当とする。これは幸村と大谷吉継娘との間にもうけた子がいずれも九度山蟄居(1600-14年)時に誕生していることから1592年(文禄元年)以前は不自然という見方である。
  • 黒田基樹氏:1596年(慶長元年)前後とみている。これは幸村と大谷吉継娘、そして嫡男・大助の生まれから2人の婚姻適齢期を推察し、そこから導き出したようである。

どうやら丸島和洋氏は「大谷吉継の病気の時期」を、平山優氏や黒田基樹氏は「真田大助の年齢」を着眼点としているようである。

朝鮮出兵

1592年(天正20年)、文禄の役で真田父子は肥前国名護屋城に参陣。昌幸は家臣に朝鮮渡海の準備を命じているが実際の渡海記録はなく、詳細はわかっていない。ただ、秀吉の朝鮮出兵で渡海を命じられたのは基本的に西国大名であり、東国大名は予備の兵力として国内に在陣していたというから真田氏は渡海していないとみられている。

この時期の幸村は既に秀吉の人質ではなく、馬廻衆として直臣扱いとなっていることが確認できている。また、この年には昌幸の母・河原氏が没している。

一方でこの年から秀吉が隠居後の住まいとするため、伏見城の普請(1592-96年)を開始。これに伴い、真田父子は秀吉から普請役を命じられた。幸村も昌幸・信幸らとともに普請役を賦課されていることから、豊臣政権下で知行を与えられて所領を有していたとみられている。

また、この間の1594年(文禄3年11月2日)には、信幸が従五位下・伊豆守に、幸村が従五位下・左衛門佐に叙任され、両名とも豊臣姓をも下賜された。信幸はこの年に沼田領で再び検地を実施し、検地奉行は矢沢頼綱が務めている。

1595年(文禄4年)には現職の関白で秀吉の甥・豊臣秀次が謀反の嫌疑をかけられて切腹に至るという秀次事件が起こったが、のちに幸村は秀次の娘を側室に迎えたという。

1597年(慶長2年)には明との講和の認識のずれから激怒した秀吉が再度の朝鮮出兵を下し、慶長の役となった。この間、突如下野国の宇都宮国綱が改易処分となったが、このとき昌幸が豊臣政権の五奉行・浅野長政とともに事後処理として百姓から年貢を徴収するように命じられている。また、慶長同年に昌幸の叔父・矢沢頼綱が死去している。

1598年(慶長3年)には小山田茂誠が昌幸から壱岐守の受領名を与えられて真田姓を名乗ることを許されている。


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