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家康の専横と関ヶ原の幕開け(1598-1600年)

秀吉死後の家康の専横

1598年(慶長3年8月)、朝鮮出兵の最中に秀吉が病没した。

秀吉は秀頼の成人まで豊臣政権が機能するよう、五大老(徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家)五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)らに後を託していた。

朝鮮出兵の中止という問題もあり、秀吉の死は同年末まで隠されていたが、老獪な家康はこれに乗じて、諸大名との姻戚関係を結ぶことを禁止するという秀吉の遺命を破り、他の大老・奉行らに無断で諸大名の屋敷を訪問して次々と諸大名と徳川氏との婚姻関係を結び、政権奪取にむけて派閥を形成していった。

その縁組は以下のとおりである。

  • 伊達政宗の娘(五郎八姫)× 松平忠輝(家康の六男)
  • 福島正則の養子(福島正之)× 満天姫(松平康元の娘、家康の姪で養女)
  • 蜂須賀家政の嫡男(蜂須賀至鎮)× 万姫(小笠原秀政の娘、家康の曾孫で養女)
  • 加藤清正 × かな(水野忠重の娘、家康の従妹で養女)。
  • 黒田長政 × 栄姫(保科正直の娘、家康の姪で養女)

これら家康が縁組した諸大名というのは、朝鮮出兵のころより石田三成ら文治派との不和が生じていた武断派と呼ばれる諸将らであった。

こうした家康の専横に対し、前田利家や石田三成らが反発して追及するものの、家康はこれを巧みに切り抜けており、豊臣家中では大きな対立が生まれることになった。

そうした中、家康は病気から政権に復帰していた幸村の岳父・大谷吉継に眼をつけ、奉行として重用した。

吉継は文治派ではあったものの、武断派とは対立せずに中立の立場にいた奉行人であったとみられ、吉継本人も家康を支持することが政権安定につながるという考えであったという。

五大老・前田利家の死

1599年(慶長4年)には家康専横の抑止力となっていた五大老の前田利家が病没した。

そして、この翌日には加藤清正、福島正則、黒田長政ら武断派による石田三成襲撃事件が勃発。この事件で家康は仲裁に乗り出し、石田三成に居城・佐和山城での蟄居を命じた。

さらに家康は前田利長・浅野長政・土方雄久・大野治長らが家康の暗殺を謀ったとして処罰。利長には生母・芳春院殿(おまつ)を江戸に人質として差し出させ、長政は隠居させ、治長は下総へ流罪、雄久は常陸に流罪とした。

一方で五大老の一人・上杉景勝は前年に秀吉の命で会津に移封されており、会津に下向していた。

景勝が移封された背景には、一説に最上義光や伊達政宗らなどの東北諸大名と関東の徳川家康の監視と牽制という役割があったという。

関ヶ原の戦いの幕開け

直江状

1600年(慶長5年)、会津の上杉景勝が謀反を企てているとのことで家康は景勝に上洛を求めたが、景勝はこれを拒否した。
景勝の家老・直江兼続が"直江状"と呼ばれる書状で家康の上洛要請と詰問を一蹴したのだ。

これに対して家康は会津征伐を決意し、諸大名に動員をかけ、これに真田父子も従うこととなった。

家康は6月16日には大阪を出陣し、7月2日には江戸城に入った。

三成、挙兵!

これを知った石田三成は盟友の大谷吉継を佐和山に呼び、家康打倒を相談した。吉継は当初は反対していたが、最後には三成の説得に応じた。

そしてついに、三成は毛利輝元を大阪城に呼び、秀頼を奉じて挙兵。
7月17日には大阪の諸大名らの屋敷で人質を取っており、同日付けで諸大名に書状を発送し、家康の専横を説いて秀頼に忠誠を尽くして味方するように求めたのであった。


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