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第二次上田合戦(1600年)

第二次上田合戦

慶長5年(1600年)、上杉討伐に向けて江戸にいた徳川家康は、石田三成の挙兵を知って軍を二手に分け、自ら率いる3万の軍勢は東海道を、徳川秀忠率いる3万8千の軍勢は宇都宮から出発して中山道を通って西上する作戦とし、決戦の地で合流することにした。

一方、西軍の石田三成に寝返った真田昌幸・幸村父子は信濃国・上田城へ戻っていた。そして袂を分かち、徳川方に残った真田信幸も加わった徳川秀忠隊が9月2日に小諸城へ入城、上田城まで迫ってきていた。

やがて上田城にて、第二次上田合戦の勃発となるが、その内容のほとんどは軍記物に頼るしかない。
以下、軍記物をもとにフィクションで再現したのでみてほしい。

-- 慶長5年9月2日 --
【信濃国・上田城】

真田昌幸アイコン

昌幸

内府(=家康)め、やはり信幸をこちらに向かわせたか。総勢3万8千で総大将は秀忠か・・。
こちらは2500だが分は地の利を知る我らにある!

真田幸村アイコン

幸村

父上。ではわたしは砥石城へ行って参ります。

真田昌幸アイコン

昌幸

うむ。源次郎(=幸村)頼んだぞ!

-- 9月3日 --

昌幸は信幸に使者を送り、剃髪して降参する旨を伝えた。これに信幸と秀忠は・・

信幸

こ、これは!!・・・・。
つい先日に石田殿に付いたというのに、父上は一体なにを考えておられるのか・・。

真田信幸アイコン

秀忠

そうか!安房守(=昌幸のこと)め、徳川の大軍に恐れをなして降参するというか!
それは愉快じゃ!がはははは!
ではただちに使者を派遣し、上田城を明け渡せば赦免することを伝えよ!

徳川秀忠アイコン

こうして喜んだ秀忠は上田城の昌幸のもとに使者を送り、上田城の開城を迫ったのであった。

秀忠の使者

真田殿、秀忠様からの伝令を申し上げます。上田城を明け渡せば赦免するとのことでございまする。無益な争いは避けたいとのことなのでどうか降伏をしていただきたいと存じまする。

家来アイコン
真田昌幸アイコン

昌幸

そうですなあ。承知いたしました。ただ、開城の準備もあるので少々待ってくださらぬかのう。

-- 9月4日 --

秀忠の使者

真田殿、準備は整われましたか?

家来アイコン
真田昌幸アイコン

昌幸

そうですなあ。

・・・・・。

おおよそ籠城の準備が整いましたので先日の件はお断りいたしまする。
フフフ。秀忠にそう伝えて参るがよいわ!

秀忠の使者

!!!?

・・・・ぐぬぬっ!!

家来アイコン

そして、使者からの伝令を受けた秀忠は・・・

秀忠

なにぃ!?

おのれ~たぶらかしおって!安房守の奴め、断じてゆるさんぞ!!
ただちに真田征伐じゃあ~~!!

徳川秀忠アイコン

-- 9月5日 --

砥石城に入った幸村は、砥石城攻略を指示された兄・信幸率いる徳川の先鋒隊と激突した。 幸村は徳川軍に小当たりしつつ、砥石城を捨てて上田城へ向かった。
こうして砥石城を占領した徳川軍は次に上田城へ向けて進軍をはじめ、 幸村は徳川軍を誘いこむ形でそのまま上田城内に入った。

真田幸村アイコン

幸村

こちらにまっすぐに追ってきたようだな。思惑どうりだ!

真田昌幸アイコン

昌幸

源次郎、上出来じゃ。城の外を見てみろ!

真田幸村アイコン

幸村

徳川軍は我らが呼吸を乱れさせていることに気付いておりませぬな。

真田昌幸アイコン

昌幸

そうじゃ!

しかし、徳川軍には信幸がついておる。油断は禁物じゃ!

-- 9月6日 --

秀忠は上田城を一望できる染屋原に本陣を置いて上田城攻めに着手した。

一方、昌幸は事前に以下の策をとっていた。

  • 領内の百姓や町人らに対し、敵将の首1つにつき、知行100石を与える約束をした
  • 近隣の山や上田城側面の林に伏兵を配置
  • 神川の水を上流でせきとめておく

真田幸村アイコン

幸村

父上!城の外をご覧くだされ。徳川の陣が見えますぞ!

真田昌幸アイコン

昌幸

フフフ。源次郎。そろそろ参ろうかのう。

昌幸と幸村は秀忠を挑発するために物見に向かった。

徳川家臣

秀忠様!申し上げます!真田父子が50騎ばかりのみでこの陣の手前まで物見に現れております!!

家来アイコン

秀忠

なに!?このわしを物見にだと!!なめおってからに~!!

徳川秀忠アイコン

本多正信

若様、あまり血気にはやるのは禁物でございますぞ。

本多正信アイコン

秀忠

だまれ!天下の徳川が真田ごときに引き下がってられるか!
鉄砲隊よ!撃てーーい!

奴らを逃さずに討ち取るのじゃーー!!

徳川秀忠アイコン
真田昌幸アイコン

昌幸

フフフ。源次郎。そろそろ城へ戻ろうかのう。

この瞬間に徳川軍は真田の戦略にまんまとはめられたのである。

昌幸は小さな盆地が密集する信州の地形を活かし、伏兵を要所に配置していた。そして、進軍する徳川軍に対していっせいに襲いかかり、激闘となって城に撤退していた真田父子も出陣した。

混乱に陥った徳川軍が敗走をはじめると、昌幸は事前にせきとめていた神川のせきを一気に切らせ、敗走する徳川兵の多数はその濁流に飲み込まれて溺死していったのであった。

真田昌幸アイコン

昌幸

これで秀忠は三成との決戦に間に合うまい。

真田幸村アイコン

幸村

父上、主力の秀忠軍なしでは内府もどうしようもないでしょうな。

(・・・わが父ながら、なんて恐ろしい人だ)

徳川軍は次々と要所から現れる真田の伏兵の攻撃に退却せざるを得ないのであった。

-- 9月7日 --

秀忠

おのれ~真田め!一矢報いねば武士の面目がたたぬ!かくなる上は・・

徳川秀忠アイコン

本多正信

若様!もはや猶予はありませぬぞ!!
急ぎ西へ向かわねば天下分け目の合戦に間に合いませぬ!!

本多正信アイコン

秀忠

!!!

徳川秀忠アイコン

本多正信

・・・もう真田にかまっている場合ではございませぬ。

本多正信アイコン

秀忠

・・・・・・。

(あああ~そうであった~。)

徳川秀忠アイコン

関ヶ原本戦の行方と降伏する昌幸

こうして秀忠は真田討伐を断念し、関ヶ原の本戦に向けて進軍していった。 一方で秀忠軍を撃退した昌幸は、関ヶ原の決戦での石田三成の勝利を確信していたという。これは秀忠軍が決戦に間に合わないことを念頭に置いてのことと考えられている。

実際に関ヶ原の決戦は9月15日に行なわれ、秀忠軍はこれに間に合わなかった。だが、昌幸の意に反し、関ヶ原決戦はたった1日で三成率いる西軍が敗れ、幸村の岳父・大谷吉継は戦死し、三成や小西行長らは逃亡してしまった。

その後、9月18日には三成の居城・佐和山城は家康に攻略され、20日に家康は大津城に入城し、この日にようやく秀忠隊も合流したが、怒り心頭の家康は秀忠との会見を拒否したという。

三成の敗戦を知った昌幸は、天下をとった徳川相手に最後は討ち死を覚悟し、上田城を監視する徳川軍の撃破を考えた。そして、森忠政の軍勢に夜襲をしかけ、想定外の攻撃に驚いた森軍を交戦することなく逃亡させたという。
だが、最後には信幸の説得もあり、ついに徳川に降伏することとなった。

合戦中、城内に敵を通す

ところで、第二次上田合戦の最中における昌幸の逸話が『名将言行録』にあるので紹介しよう。

※『名将言行録』より

これは第二次上田合戦の最中、徳川秀忠が「冠が岳」にいる味方の先陣に連絡をとるため、家臣・島田兵四郎 という者に使いを命じたときの話である。

--信濃国・上田城--

秀忠の命を受けた島田兵四郎は地理に疎く、先陣への連絡に上田城の周りを通るのでは時間がかかりすぎると思った。
そこで兵四郎は馬で敵城の上田城の大手門前まで乗りつけ、真田兵に向かって大声で叫んだ。

兵四郎

それがしは江戸中納言(=秀忠)の家来の島田兵四郎という者だ。

君命を帯びて、我が先陣の「冠が岳」へ急いで連絡に行きたいので、どうか城内をお通し願いたい!

家来アイコン
家来アイコン

真田兵たち

なんだあ?

あの者は一体なにを言っているんだ。

真田兵たちはびっくりしたが、とにかく城主の昌幸に事の次第を報告した。

真田昌幸アイコン

真田昌幸

はあ・・。それは誠か?

なんと肝っ玉のすわった奴じゃ。その勇ましさには感服じゃ。もし通さなければこちらの料簡の狭さとなるであろうから、門を開いて通してやれい!

こうして上田城の大手門は開かれ、兵四郎は城内を馬で駆け抜けて裏の搦手門まで行くと再び叫んだ。

兵四郎

どうか帰りの際にも城内をお通し下され!

家来アイコン

そう言って兵四郎は先陣のところに向かい、連絡を終えた。そして再び上田城の搦手門まで戻ってくると、また門番に頼んだのであった。
これに昌幸は感服し、兵四郎を引見した。

真田昌幸アイコン

真田昌幸

そなたが兵四郎と申す者か?

先程はよくぞ申したな!感服しきりじゃ。
そなたは城を通ったから、我が城内の要害を目に収めたことであろう。それは城攻めに役立つようにみえるが、要害というものは城の本当の固めではない。真の要害とは大将の心の中にあるものよ。

兵四郎

なるほど・・・

家来アイコン

そうして昌幸は兵四郎に城内を見せたのであった。兵四郎は昌幸に礼を述べ、自陣に戻ると秀忠にこれを復命した。

この話を聞いた人々は言った。「道を借りる武士も武士なら、それを貸す大将も大将だ。昔からこんな事は聞いたことがない。珍事であり、英雄の行為だ」と。


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