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九度山生活と真田昌幸の最期(1600-11年)

死罪を免れ、高野山へ追放

慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原合戦で念願の勝利を治めた徳川家康は、降伏した真田昌幸・幸村父子に死罪を求めた。
しかし、真田信幸が舅の本多忠勝らに家康への取り成しを依頼し、自らも助命嘆願をした結果、昌幸・幸村父子は死罪を免れて高野山追放となったのであった。

同年12月13日、昌幸らは上田を後にして高野山へ向かった。

昌幸は信幸と別れるときに悔し涙を流したという。昌幸・幸村らに付き従ったものはそれぞれの家族と、池田長門守、高梨内記、小山田治左衛門ら16人の家臣らであった。
昌幸ら一行はまず高野山の麓細川、次いで真田家の菩提寺である蓮華定院、さらに同院の紹介で高野山麓の九度山に屋敷を構えて移ったという。

一方の信幸は、関ヶ原の戦いの後に「信之」と改名した。これは家康家臣として、父・昌幸の文字を使用することを気兼ねしたものであるとみられている。

九度山での生活

九度山での昌幸らは、家康の命を受けた紀伊国和歌山城主・浅野幸長によって監視されていた。しかし、狩猟や釣など比較的自由な行動が認められており、また、読書や碁を打つなどして過ごしていたという。ただ、知行地などはすべて没収されており、生計をたてるために「真田紐」を考案したとも伝わっている。

昌幸らの生活の収入源は以下のようなものであった。

  • 浅野幸長からの支給(毎年50石を贈られていた)
  • 信幸からの仕送り(年貢の一部を割いていた)
  • 借金

しかし、上記の収入だけだは足りず、昌幸が国元に対して送金の依頼をした書状が多く残っており、生活は相当に窮していたことがうかがえる。

昌幸の死と遺言

一方で昌幸ら一行が蟄居生活を送っている間にも政治は次々と動いていた。

慶長8年(1603)2月、家康は征夷大将軍となって江戸幕府を創設すると、慶長10年(1605)には将軍職を子の徳川秀忠に譲り、将軍職は徳川家が世襲していくことを示した。
さらに慶長12年(1607)には駿府城に移り、「駿府の大御所」として実権を握りつつ、江戸幕府の制度作りにつとめていった。

こうした中、昌幸は息子・信幸や浅野長政本多正信らを通じて赦免の嘆願を度々行なっている。旧知の人物に手紙で赦免されたら会いたい旨を伝えていたようであり、昌幸はいずれ赦免されると考えていたようである。しかし、その期待は空しくも家康からの赦免はいつまでもなかった。

やがて昌幸は病気がちになっていき、重篤となった死の間際には幸村を枕元に呼んで遺言を残した。
その内容は、のちに豊臣家と徳川家が対決すること、そしてその時の徳川打倒の策の伝授、さらに幸村ではその策の実現が難しいことを伝えるものであったという。(以下、逸話を元ネタにしたフィクション)

--紀伊国・九度山--

真田幸村アイコン

幸村

父上・・。

真田昌幸アイコン

昌幸

ハァ・・ハァ・・・・。

源次郎(=幸村)よ。わしはもうこの先長くはない。

・・・・不覚じゃ。この先世が大きく動こうとするというのに、家康よりも先に尽き果てることになろうとは。。

真田幸村アイコン

幸村

父上!なにを仰せられますか。まだまだこれからでございます。

真田昌幸アイコン

昌幸

・・・・豊臣と徳川の戦はあと数年もすれば現実となるであろう。

源次郎。お主がこのわしの代わりに大阪城へ行け。秀頼公の元で家康と戦うのじゃ!

真田幸村アイコン

幸村

父上!なにか策でもおありなのですか?

ぜひその策をそれがしにお聞かせください!!

真田昌幸アイコン

昌幸

源次郎よ。・・ハァ・ハァ・・。

策を教えるのは容易いが、それを実行するのは容易ではないぞ。

そして、以下のような壮大な昌幸の策が幸村に伝えられた。

  • 豊臣と徳川が手切れとなったら、まず大阪方の軍勢を率いて尾張に奇襲を仕掛ける。
  • 徳川の反撃がきたら決戦をするのではなく、軽くあしらって時間を稼ぎ、味方の軍勢を近江まで後退させる。
  • 近江の瀬田橋、次いで京都の宇治橋を落として防衛を固めて、その間に徳川の拠点・二条城を焼き払う。
  • その後、大阪城に籠城して長期戦を展開。徳川方の士気低下や疲弊によって動揺や不満を誘い、大阪方へ転ずる者がでてくる。
  • その結果、家康は大阪城への攻撃を継続できなくなり、撤退を余儀なくされ、再度天下は豊臣方にかたむいてくる。

真田幸村アイコン

幸村

なんと!!

(父上はそのような事を考えていたのか・・・。)

真田昌幸アイコン

昌幸

・・ハァ・・ハァ。

しかし源次郎よ。この秘策は徳川に2度勝利した名声をもつわしだからこそ可能なのじゃ・・・ゴホッ!ゴホン!。

・・・お主はお主であってわしではない。

真田幸村アイコン

幸村

そ、そうかもしれませぬ。しかし・・・

真田昌幸アイコン

昌幸

・・・・ゴホッ!ゲホホッ!!!。

・・お主に武将としての器がないといっているわけではない。ただ、若く名もないお主が策を披露したところで皆に受け入れられるかどうかなのじゃ。

・・・源次郎。太閤が遺した難攻不落の大阪城で家康を討て。。わしの代わりに。。

真田幸村アイコン

幸村

・・・。


昌幸の遺言は、のちの大阪の陣(1614-15年)で実際に的中するという、悲運の予言であった。

こうして慶長16年(1611)6月4日、家康を2度も苦汁を飲ませた真田安房守昌幸は、この世を去っていった。

幸村の状況

幸村はこの九度山で新たな多くの家族に恵まれ、正室・竹林院との間には4人の子をもうけていた。

  • 長男:大助(幸昌)
  • 次男:大八(守信)
  • 六女:阿菖蒲(おしょうぶ)
  • 七女:おかね

このほか、側室・隆清院(りゅうせいいん)との間に五女・御田(おでん)、側室で農家の娘とされる人物(不詳)との間に八女と九女も誕生したとされている。

また、この蟄居生活中に幸村は多くの手紙のやりとりをしている。

昌幸の書状を生前に代筆した際には、追伸に自身のことを「大草臥(くたびれ)者になった」と記しており、九度山生活に疲れていたようである。また、昌幸の死の前後には九度山まで付き従ってきた家臣らの多くは国元に戻り、幸村のもとに残った家臣は高梨内記や青柳清庵らわずか3人であったという。そうした淋しい状況を記す幸村自身の書状も残っている。
このほか、姉の夫・小山田茂誠に「急に病気になって、歯も抜け落ち、髭は黒いものが少なくなった」と嘆いている書状は有名である。
また、このころに出家して「好白」と称して剃髪したという。

幸村は蟄居の身であることに加え、年老いていく自身の身体、父・昌幸の死、離れていく家臣らを目の当たりにし、無力感に陥っていったとみられている。しかし、その後、父・昌幸が残した予言は見事に的中し、豊臣家と徳川家の対立が幸村を再び武人としてのフィールドに立たせることとなるのであった。


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