あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

大阪入城と幸村の策(1611-14年)

慶長16年(1611年)、昌幸が病没する少し前、京都・二条城で家康と豊臣秀頼との会見が実現した。

このとき家康は諸大名による秀頼の出迎えを禁じ、秀頼に付き従ったのは加藤清正、浅野幸長など一部の豊臣恩顧の大名のみであった。これは豊臣家と徳川家の立場が逆転する象徴した出来事であった。

一説に家康は秀頼との対面後に本多正信に対し、「秀頼は赤子のようだと聞いていた噂とは全く違い、賢くて人の命令に従うような人物ではない」と述べたという。

この後、家康は豊臣家を滅ぼす決意をしたとみられている。

方広寺鐘銘事件

慶長19年(1614年)、家康は豊臣家を滅ぼすための開戦の口実を追求していた。

そうした中、慶長同年8月には秀吉の17回忌に京都方広寺で大仏の開眼供養が実施されることになっていた。そこの梵鐘(=仏教で時を知らせるために打鳴らす鐘)の銘文に"国家安康"が刻まれており、これが家康の名を分割したものであり、呪うものであるとして徳川方が大阪方を厳しく問い詰めたところ、豊臣と徳川の関係は急速に悪化。

これに淀殿と豊臣秀頼は片桐且元を派遣して交渉にあたらせた。しかし、且元は家康とは面会できず、側近の本多正純らに厳しく問い詰められて悪意がない証を示すよう、以下の3条件を求められた。

  • 秀頼は駿府と江戸に参勤すること
  • 秀頼は大阪城を明け渡し、他の城に移ること
  • 淀殿を人質として江戸に送ること

だが一方で淀殿は8月末に大蔵卿局を駿府へ派遣させていた。大蔵卿局は直接家康と面会しており、家康は不問として安心するよう伝えたという。

こうして大阪に戻った片桐且元と大蔵卿局の話は食い違い、片桐且元は徳川方への内通を疑われた。誅殺計画もあって身の危険を察した且元は徳川方に寝返ることを余儀なくされた。

これは通説では且元を孤立させて大阪方から分断するという家康の謀略とされていたが、近年の研究では家康は豊臣を滅ぼすのではなく、江戸幕府の体制下に組み込もうとしていたという。

且元は10月1日までには妻子や家来を連れて大阪城を退去し、徳川方と豊臣方の交渉は事実上決裂となった。ついに家康は大阪城討伐令を発令した。

豊臣方の開戦準備

家康との戦いが不可避だと悟った豊臣方は、兵糧の備蓄、防備強化のための大阪城の普請、旧恩ある大名や諸国の浪人らの招集など、戦争準備に着手していった。

真田丸の構築

大阪城は惣構(そうがまえ)やその外側に砦や柵がいくつも増設されていき、幸村がのちの大阪冬の陣で守備を担当した"真田丸"もそのひとつであった。

こうした大阪城の普請の時期は定かではないが、10月11日の時点で天王寺口に堀が掘られ、櫓が構築されるなどある程度進められていたことが徳川方の書状で確認できている。真田丸の築城は幸村の大阪入城前後で決定していたとみられている。

幸村の大阪入城

幸村のもとにも秀頼からの使者が密かに訪ねてきて豊臣方へ与することを要請され、黄金200枚、銀30貫を贈られたという。幸村はこれに応じ、10月9日には九度山を脱出した(諸説あり)。

どのように九度山を脱出したのかは諸説あり、いずれも定かではない。

有名な一説によれば、紀伊国の大名・浅野長晟は付近の百姓らに幸村の監視を命じていた。このことを知っていた幸村は百姓らを屋敷に招いて歓待し、皆が酒で酔いつぶれた後に百姓らが乗ってきた馬に荷物を付け、武装して誇らしげに脱出した。
翌朝、目がさめて幸村の脱出を知った百姓らは全員頭を抱えたという(『武林雑話』)。

また、別の説では幸村はいざという時のため、事前に山中の脇道に目印を付けておき、これを頼りに脱出したという。
これを知った浅野長晟は軍勢を差し向けたがすでに幸村らの姿はなく、付近の者らに問うと、幸村一行は3日前に脱出したと口々に答えたため、追跡を諦めた。しかし実際には脱出して三刻ほどしか経っていなかった。これは幸村が日頃から百姓らに礼を尽くしていたため、百姓らの同情と恩返しであったという(『幸村君伝記』等)。

こうして幸村は上田の旧臣らに参陣を呼びかけて招き、大阪入城を果たしたのであった。

徳川方の出陣と大阪方の軍議

一方で家康は先鋒隊として本多忠政・藤堂高虎らを大阪城に向けて出発させていた。

10月14日に幸村の大阪入城の報が京都所司代・板倉勝重から届くと、家康はこの報を聞いて血相を変え、真田というのは親(=昌幸)のほうか子(=幸村)のほうか?と使者に尋ね、幸村であることを知ると、安堵の表情を浮かべたという。

10月23日には家康が駿府から上洛して二条城に入り、10月29日には先に出陣させていた先陣の本多忠政・藤堂高虎軍が和泉国へ進軍した。
11月10日に家康嫡男・秀忠も二条城に入ると、11月15日には家康と秀忠は京都を出陣し、家康は茶臼山に、秀忠は岡山をそれぞれ本陣と定めた。

こうして11月中旬ごろに徳川軍による大阪城包囲は完了し、開戦準備を終えたのであった。

退けられた幸村の策

徳川方が大阪城包囲に至るまでの間に、豊臣方では続々と浪人衆が集まった。総兵力は19万余・13万・7万余・3万余など諸説あって定かではない。

幸村は5000余を与えられ、別格の扱いを受けたといわれている。その他の主な浪人は長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登、後藤基次(又兵衛)、木村重成などであった。

また、大阪城で軍議が開かれたが、いくつかの派閥が存在したという。

  • 積極派:真田幸村・後藤又兵衛・明石全登・長宗我部盛親ら浪人衆
  • 慎重派(籠城策):大野治長・木村重成ら
  • 日和見派:青木一重・速水守久ら秀頼側近衆

独裁的な人物が不在であったために軍議は難航したといい、このとき幸村は積極策を主張したという逸話がいくつかあるが、以下に大まかに紹介する。

  1. 真田、後藤隊が出陣して近江国瀬田、山城国宇治を確保し、橋を落としてここを拠点に徳川軍を迎撃。
  2. その間に大野・木村隊が京都所司代・板倉勝重を討って伏見城を攻略。
  3. 別働隊として大和口の抑えに長宗我部・明石隊。
  4. 茨木城の片桐且元は秀頼側近衆が陥落させる。
  5. 近江大津に砦を築く。

上記作戦によって近畿地方を確保し、広大な防衛ラインを築くことができ、徳川軍の進軍を妨げることで諸大名の動揺と離反を誘うことができると主張した。これには後藤又兵衛も同調し、幸村は瀬田、宇治を突破されたら大阪方の苦戦は火を見るより明らかであると強調したという。

この意見に対して小幡影憲が日本史上、瀬田・宇治を確保できた例はないとし、籠城策を主張した。そして結局、大野治長は籠城戦に挑むことを決定とし、幸村の策は退けられてしまった。しかし、この小幡影憲は実は徳川方に内通しており、京都所司代の板倉勝重に連絡していたといい、のちに家康方に与している。

幸村の策が退けられ、信用を得ることができなかったことの背景には、幸村の地位や実績の欠如、兄・信之や叔父・信尹が徳川方に与していること等があるとみられている。こうして父・昌幸の予言は的中してしまったのであった。

この他、真田丸の守備を幸村が担当することに対し、重要拠点を預けるのに幸村に預けて信用できるものなのかと取りざたされたという話もある(『落穂集』など)。

徳川軍による大阪城包囲が進み、最悪の事態を悟った幸村は最期に、”急いで天王寺方面を占領し、陣地の整わないうちに徳川軍に大打撃を与えるべき”と主張したが、これも退けられてしまったという。


あわせて読みたい
<大阪の陣>徳川方の将まとめ
真田幸村トップ / ヒストリー
<大阪の陣>豊臣方の将まとめ
真田幸村トップ / ヒストリー

 PAGE TOP