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大阪冬の陣/前哨戦と大阪城包囲(1614年)

冬の陣の緒戦

そして、ついに大阪冬の陣の前哨戦が大阪城の周辺ではじまった。

木津川口の戦い

慶長19年11月19日(1614)、大阪城の南西部・木津川口の砦が徳川方の横須賀至鎮の軍勢に急襲された。

この砦は本来は豊臣方の将・明石全登が守備するはずであったが、このとき全登は大阪城に伺候中で不在であり、代わりに弟の全延が守備したが、統制が取れずに砦は陥落してしまった。

※出所:by Jmho(2006/10/23)-大坂冬の陣布陣図 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

鴫野の戦い、今福の戦い

同年11月26日には大阪城の北東側、今福砦では佐竹義宣の軍が、鴫野砦には上杉景勝の軍が攻め込んできた。

鴫野砦では上杉勢の攻撃によって大阪方の井上頼次は討ち死にした。豊臣方は大野治長が来援にきて反撃に転じるが、鉄砲隊の一斉射撃を受けて退却となった。

一方、今福砦では豊臣方は押し込まれて劣勢であったが、木村重成が初陣ながら反撃を開始して佐竹義宣勢と互角に渡り合い、さらに後藤又兵衛も救援に駆けつけたことで佐竹勢を押し戻した。
しかし、佐竹義宣が大和川対岸にいた上杉勢に救援を依頼すると、豊臣方は上杉勢の鉄砲射撃を受けて撤退を余儀なくされたのであった。

この戦いで鴫野・今福の両砦はともに陥落してしまい、大阪城北東側の砦は崩壊となってしまった。
また、豊臣方の後藤又兵衛がこのとき負傷したが、徳川方の佐竹軍も重臣・渋江政光らが戦死するなど甚大な被害を被ったという。

博労淵の戦い、野田・福島の戦い

11月29日には大阪城の西側の砦では、博労淵砦に横須賀至鎮軍が、そして野田砦と上福島砦には九鬼守隆ら徳川方の水軍が攻めてきた。

博労淵砦の守備は薄田兼相(すすきだ かねすけ)が担当であったが、このとき不在であっけなく陥落となった。指揮官であった兼相は遊郭に通っており、この一件以来、味方の将から "橙武者"(=橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味)と嘲笑されたという。

一方、野田砦・上福島砦もこれまた九鬼守隆らの水軍によって占領。大雨の中で多勢の襲撃に豊臣の守備兵らは怖じ気づいて逃亡してしまい、あっさり陥落となった。これらの砦は豊臣方が安宅船を管理する重要拠点であった。

これにより大阪城西側の砦もほぼ崩壊してしまい、豊臣方は船場と天満の放棄を余儀なくされた。11月30日には残りの砦に火を放って破棄し、大坂城に撤収したのである。

逃げ場なし!大阪城が完全包囲

こうして徳川方は大阪城の全包囲の態勢に入った。

豊臣方は大阪湾に接する船場・天満や木津川、大和川河口を奪取され、船による補給が困難となった。しかし一方で徳川方も諸大名らが兵糧の欠乏に直面するという状況であった。

このときの状況を示す各史料は以下。

  • 大阪周辺の兵糧は高騰が激しく現地調達は困難であった。
  • 諸大名らの中には国元から搬送を依頼する者も多く、戦闘継続に差し支えたほどであった。
  • 家康は大阪城の全包囲に向け、付城を築くよう指示している(『当代記』)。
  • 徳川方は海上封鎖を行ない、九鬼ら水軍が監視し、豊臣方の船を発見すると手当たりしだいに拿捕したという(『駿府記』)

こうして大阪城は家康の幕府軍20万とも50万ともいわれる大軍によって完全包囲されたのであった。

※出所:by Jmho(2006/10/23)-大坂冬の陣布陣図 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

大阪城への攻撃準備

ついに徳川家康は大阪城への攻撃態勢に入るため、諸大名らに仕寄せ(= 竹束・大楯・井勢楼といった、身を守りながら大阪城に接近するための構築物)の構築を命じた。

しかし、徳川方の仕寄せは大阪城に近づけないままだったという。これにはいくつか理由があった。

『村越道伴覚書』によれば、この徳川方の仕寄せの構築に対して豊臣方はこれを阻止すべく、鉄砲を盛んに浴びせたといい、徳川方の将たちはこれに臆して竹束の中に引っ込み、さらに相互の間隔も開き気味であったという。

また、徳川方の諸大名らの多くは実戦経験が全くない、もしくは乏しい者たちであった。これを示す面白い逸話がある。

家康は諸大名らを茶臼山に集めた際、仕寄せの作り方を知らない者たちのために、既存の仕寄せを見せて同様に構築するように命じた。また、井伊直孝がこれを熱心に見学していると、家康から「お前には教える必要もない」と言われ、「家中に歴戦の侍がいるだろう」と諭されたというのである。

真田丸のあった玉造口付近は湿地帯で、隙間なく仕寄せを構築するのが難しかったようだが、それでもある程度仕寄せが仕上がると、家康から今度は「その背後に高い"篠山"を構築して 大阪城内を見通す工夫をせよ」との命が下ったという。

家康から派遣された御検使衆が"篠山"を築く場所に目印の杭を打った。諸大名らはその目印の少し後ろに築いたが、井伊直孝はだけは大阪城のほうへ近づけて"篠山"を構築したと伝わる。(石谷土入記)


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