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大阪冬の陣/真田丸での激闘(1614年)

大阪冬の陣で幸村が大活躍し、その名を轟かせたという「真田丸の戦い」はどれほどの激闘だったのか!?

幸村、敵を真田丸に誘い込む

大阪冬の陣の前哨戦が行なわれていた頃、幸村は真田丸の前方にある篠山という小山に柵を設け、鉄砲隊の一部を配置し、前田利常軍に毎日鉄砲を浴びせていた。これは慶長19年(1614)11月20日以前より行なわれていたことが史料で確認できている。

同年12月3日には大阪城内で南条元忠の徳川方への内通が発覚した。城外からの連絡時に密書が発覚したことで南条元忠とその家臣らは処刑されたという(『北川遺書記』『武徳編年集成』ほか)。
実はこの一件、のちに冬の陣の戦局を大きく左右することになる。

両軍の緊張はピークに高まり、12月4日の夜明け前、ついに真田丸の前方に位置する徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直の軍勢が動き出した。

前田利常軍の進軍

前田軍の本多政重や山崎閑斎らが手勢を率いて篠山に接近したが、既に真田軍は真田丸に引き上げており(『大阪御陣覚書』ほか)、その他各史料によれば、前田軍は篠山をあっさりと占領したという。
『真武内伝』によると、このとき真田丸の真田兵は「鳥でも撃ちに来たのか?」とあざ笑って挑発したという。この真田軍の篠山放棄は幸村が仕掛けた罠であったと考えられている。

ここで前田軍で思いもよらない事態が起こった。血気にかられて戦功をはやった小姓ら数騎が指揮官の利常に無許可で前に乗り出してしまったのだ。

これを見た利常の馬廻衆は疑問に思い、本陣の旗の動きによって突撃するかどうかを判断しようとした。これは旗が動いているようなら攻撃態勢に入ったとみなされるからという。
そして運悪く、ちょうどその時に旗本では旗幟を立てる場所を移動しようとしていて、旗が動いたように見えた。

こうして前田軍は真田丸へ攻め寄せて殺到する事態となったのだが、その結果は散々なものであった(後述)。

井伊直孝・松平忠直軍の進軍

前田軍が動く一方で、井伊軍と松平軍も動きだしていた。

この頃、井伊軍は他の軍よりも前に見張り番をだしていたが、松平忠直軍も負けじと井伊軍よりも前に見張り番をだした。そして両軍が競い合ってともに前進した結果、夜明け前に大阪城の堀際まで到達してしまい、意地もあって退くに退けなくなり、井伊軍は直孝の命がないにもかかわらず、勝手に空堀を下りはじめ、堀底にあった柵を破壊し、土居に取りつこうと作業をはじめたという(『道夢聞書』)。

また、霧にまぎれて夜中に井伊軍や忠直軍が真田丸や惣構えの空堀の中に忍び込み、密かに堀底にあった柵を破壊したとの記録もある(『休庵咄』)。

こうした挙げ句、愚かなことに竹束どころか楯すら準備できずに豊臣方との戦闘に突入することになったという。戦いの結果が前田軍と同様になったのはいうまでもない(後述)。

「真田丸の戦い」幕を開ける

こうして真田丸に対峙していた徳川方の諸将らは手柄を焦り、夜明け前に城際まで迫ることになった。やがて夜が明けて濃霧も晴れてくると、豊臣方は敵将の接近を察知し、激しい弓と鉄砲による攻撃を開始したのである。
ここに "真田丸の戦い" の幕が開けた。

『津山松平家譜』によると、徳川方は連携がとれず、藤堂高虎軍が戦闘に入ったのを知ると、松平忠直・前田利常・井伊直孝らの軍は続々と攻撃を始めたと伝わっている。

前田軍は幸村の策にハマって統制を失い、真田丸に突撃するものが続出していた。そして真田丸からの激しい反撃にあって死傷者が続出し、甚大な被害を被った。

夜明け前に堀底に潜入していた井伊軍の先手の兵たちは、豊臣方の城兵の一斉射撃によって瞬く間に一人残らず戦死した。これに後続部隊は救援に向かうものの、全く堀に近寄ることができず、釘付けとなって味方の兵が討ち死にするのを見ているしかなかったという(『休庵咄』ほか)。

徳川方は真田丸の堀と柵を突破しようにも、その際に真田丸からの射撃の雨にさらされて成す術もなかったのである。

真田軍は敵を大虐殺!?

こうした真田丸での激しい攻防の中、真田丸後方の城壁を守る石川康勝隊が火薬桶に火縄を誤って落とし、火薬が爆発した。 この時に石川康勝は火傷を負って石川隊は崩れ、櫓も焼け落ちたという(『津山松平家譜』)。
また、堀底にいた松平軍の兵が大阪城の惣構えに突入したのもこの混乱に乗じたものであったという。

この爆発が結果的に徳川方にとって大打撃となってしまった。

徳川軍はこれを南条元忠の内応の合図と勘違いし、一挙に突撃を開始したといい、城壁の鉄砲に注意を払うことすらなく堀の中にまで下ったのである。
先に記したように南条元忠は内通がバレて前日の12月3日に既に処刑されていたが、豊臣方は南条が引き続き内応しているように見せかけて徳川軍を欺いていたのであった。

これに乗じて堀底にいた松平軍の兵200人程は惣構えに突入した者もいたが、城内に待機していた木村重成軍に包囲されて全員が討ち死にしたという。また、堀底に残された者も進むことも退くこともできずに討ち死にしていったという(『休庵咄』『津山松平家譜』)。

幸村はこの機を見逃さず、徳川の大軍をじっくりと引きつけた後で鉄砲で嵐のように一斉射撃。この様子をイエズス会宣教師は 書物で"大虐殺" という言葉を用いている

これに気付いた徳川軍の先頭は退却しようとするが、後方からは味方の大軍が押し寄せてきたために退くに引けず、退却する者・進軍する者が重なって衝突し、大混乱となった。

家康、ついに撤退命令を出す

戦闘は昼過ぎになっても続いていたが、真田丸での大敗を知った徳川家康はただちに戦闘中止と撤退の命を各隊へ出した。

しかし、豊臣方から狙撃される恐れがあったことと、他の隊よりも早く撤退するのはメンツがたたないこと等が理由で 徳川方の兵たちは退却もままならなかったという。

玉薬の節約で豊臣方が射撃を控えるようになった夕方頃、井伊軍が撤退をはじめたことで松平軍もこれに続き、ようやく両軍の戦いが集結したという。
城内からの狙撃を恐れ、夜になるのを待ってから堀底や土居から抜け出て逃げ帰った者もいたという(『大阪御陣覚書』など)

こうして徳川方は真田丸の攻防で大敗を喫し、その死傷者は数万にも及んだとみられている。

また、戦功をはやった前田軍の小姓らは戦後、詮議にかけられ、阿井八兵衛と山田大炊は切腹を命じられたと伝わっている(『前田家雑録』ほか)。


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