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大阪冬の陣/講和交渉と堀埋め立て(1614-15年)

続く包囲戦

慶長19年(1614年)12月4日の真田丸の戦いで手痛い敗北を喫した徳川方だが、家康はこの大敗と同時期に幸村を味方に付けようと調略を開始した。

また、徳川方による大阪城包囲は引き続き継続しており、翌12月5日には藤堂高虎軍が大阪城の惣構えに突入を企てたが失敗に終わっている。

家康は大阪城に対して大砲、石火矢(=室町時代末期に伝来した火砲の一種)を撃つ作戦に出た。さらに、各隊に交代で夜通しで"鬨の声"をあげさせ、豊臣方に緊張と疲労を与えようと心理戦を展開したという。

一説に「徳川の総攻撃が始まるのか」と大阪城内の町人や女子供らを恐怖に陥れ、惣構えから三の丸へ逃げ込む人々の波ができたといい、あまりの混乱ぶりに橋から落下して500余の人々が死亡する惨事になったという。
また、これに対し、幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親は、兵士たちに「夜襲などありえず、豊臣方の出方や守備の様子を探るためのものだから持ち場を堅固にして無駄に発砲しないように」の旨を下知してまわったといい、このため、城方は静まりかえって落ち着いた様子になったという(『老少聞書』)。

こうして包囲戦を展開する一方、水面下では講和を目指す家康と豊臣方との間で和睦交渉も始まっていた。

豊臣方では淀殿が権威を振りかざし、どうも意見がまとまらないと伝聞されており、さらに城内では鉄砲や大砲の火薬と鉛が不足しはじめていたようである。

秀頼は味方として身を挺して戦っている牢人衆への処遇にこだわっていた。しかし、家康は敵となって立ちはだかっている彼らを許しがたかったとみられている。
こうしたことから12月8日以降の交渉の議題は、豊臣方の牢人の処遇問題に集中したようである。

そして12月15日になってようやく豊臣方から家康に対し、以下のように2つの和睦条件を提示するという動きがみられた。

  1. 淀殿が人質として江戸に行くこと
  2. 大阪城内の牢人に扶持(=武士に米で与える給与)を加増すること

しかし、家康は上記2を不満としてこれを拒否したという(『駿府記』)。

12月16日からは徳川方が大阪城への一斉砲撃が開始される。

砲撃は大阪城に最も近い備前島で実施され、大阪城本丸や天守にも砲弾が着弾することもあったといい、その砲撃の音は凄まじく、遠い京都にまで届き、その音を聞きながら茶会が催されたともいう。

一説に本丸への砲撃が淀殿の居所近くに着弾して侍女が7~8人死亡。これに恐怖した淀殿が一気に和睦へ傾いたという。

12月17日には和議成立の噂が流れたが、翌日に破談になったとされた。また、このころに秀頼から和睦提案もあったらしいが、どうやら不調に終わったようである。

和睦交渉は当初、豊臣方は大野治長・織田有楽斎ら、徳川方は本多正信・後藤光次らが担っていたが、 12月18日、家康は淀殿説得のために常高院(淀殿の妹)を派遣、これに本多正純・阿茶局を補佐につけて送りこんだ。

驚愕の条件で和睦へ

交渉は徳川方の京極忠高の陣所で行なわれた。(常高院・大蔵局 vs 本多正純・阿茶局)

そして翌12月19日、ついに合意に至ったのである。その内容は以下の五カ条であった。

  1. 牢人ら豊臣の将を不問とする。
  2. 秀頼の知行を安堵する。
  3. 秀頼の身の安全を保証する。
  4. 淀殿の江戸在住(=要するに人質)を不要とする。
  5. 大阪城を開城すれば、望む国を与える。

しかし、条件はこれだけではなく、のちの豊臣家滅亡につながる大阪城の惣構・二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てという驚愕の内容も含まれていたのであった。

12月20日、家康父子より鉄砲射撃停止命令がだされる(『三才雑録』)。
すると、豊臣・徳川双方の兵らが大阪惣構の堀際に集まり、親類や知己の死骸を探し回ったという(『福富覚書』『士談会稿』)。

豊臣の牢人らは赦免されることになったが、この和睦にほとんどの牢人が不満であった。

一説に幸村は徳川の油断を見計らって夜襲を企図したが、家康は警固を厳重にしていたため断念したという(『松代真田家譜』)。また、幸村と後藤又兵衛が家康父子を追撃して江戸に侵攻すべきだと主張したとも伝わる(『休庵咄』)

12月21日、和睦の起請文の取り交わしが完了し、この日から堀埋め立ての手配・工事が着手されたといい、作業は諸大名が総出で昼夜問わず実施されたという。(『大阪冬陣記』『翁物語』)

堀の埋め立て

大阪城の埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構であったという(『本光国師日記』『綿考輯録』)。

徳川方が担当した惣構の埋め立ては12月24日にはほぼ完了したといい、一方で豊臣方の担当した埋め立ては難航し、完了は翌慶長20年(1615年)1月22~23日頃だったという。

大阪城丸裸は家康の陰謀か?

大阪城の埋め立ては家康による謀略説が有力視されていた。外堀だけを埋める約束だったのが、徳川方の強引な解釈ですべての堀の埋め立てを強行したという。

しかし、信頼のおける史料では埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構であった(『本光国師日記』『綿考輯録』)。つまり豊臣方が本丸だけを残して丸裸になるのは了承済みであったということである。

こうしたことから現在は家康による謀略説は疑問視されている。


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