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大阪冬の陣/講和交渉と堀埋め立て(1614-15年)

慶長19年(1614)12月4日の真田丸の戦いで手痛い敗北を喫した徳川方だが、引き続き大阪城包囲を継続し、家康はついに大砲、石火矢(=室町時代末期に伝来した火砲の一種)を撃つ作戦に出た。幸村ら豊臣方の運命はどうなるであろうか。

家康、砲撃・心理戦を展開

家康は大阪城への砲撃のほかに、各隊に交代で夜通しで "鬨の声" をあげさせて豊臣方に緊張と疲労を与えようと、同時に心理戦も展開したという。

一説に「徳川の総攻撃が始まるのか!?」と大阪城内の町人や女子供らを恐怖に陥れ、惣構えから三の丸へ逃げ込む人々の波ができたといい、あまりの混乱ぶりに橋から落下して500余の人々が死亡する惨事になったという。
また、これに対し、幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親は、兵士たちに「夜襲などありえず、豊臣方の出方や守備の様子を探るためのものだから持ち場を堅固にして無駄に発砲しないように」の旨を下知してまわったといい、このため、城方は静まりかえって落ち着いた様子になったという(『老少聞書』)。

幸村を調略する家康

一方、家康は豊臣方の将への調略も同時に行なっており、この頃に幸村の調略も試みたが失敗に終わっている。以下、徳川方に仕えていた幸村の叔父・真田信尹が家康の命で幸村の説得に訪れてきた時の逸話を紹介しよう。

-- 大阪城:幸村の陣 --

真田信尹

フォフォフォ。久しぶりじゃのう、源次郎。

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幸村

・・叔父上、ご無沙汰しております。本日はどういった用件で参られたのでございますか?
(わざわざ危険を賭してくるとは。大体察しがつくな・・。)

真田信尹

そなたの働きは我らが徳川陣営にも伝わっておるぞよ。大御所様(=家康)も敵ながらとそなたの策に感服しておる様子じゃ。

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幸村

・・・どういうことでございますか?
(やはりそうきたか・・)

真田信尹

フォフォ。率直に申そう・・。大御所様に仕えぬか?

大御所様はそちをとても高く評価しておる。もし仕えてくれるなら信濃国三万石を遣わすと仰せじゃ。いかがなものじゃ?

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幸村

一族の誼みをもっておいでいただきましたこと、誠にかたじけなく存じます。
しかし、それがしは関ヶ原の役からは家康公とは御敵となり、その後は高野山で落ちぶれて草臥れていました。それが秀頼公にこうして召し出されて今に至るです。

それ故、それがしは秀頼公との約束を破って家康公に仕えることはできません。

真田信尹

武士とは忠義によって身を立てるもの・・。これを破ることは道理にはずれることじゃ。しかし、わしも大御所様への忠義でこうしてそなたを誘っているのじゃよ・・・。

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こうして信尹は家康の元へ帰り、そのいきさつを復命した。

家康

ほほう・・・。そういうことであれば致し方ないのう。しかし、誠に惜しい武人じゃ。

・・信尹よ。命を救いたいという、このわしの思いを伝え、信濃一国を遣わすことで仕えるように再びたずねて参れ。

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家康の命をうけた信尹は再び、幸村のところへ赴き、説得にあたった。そしてこれを伝え聞いた幸村は・・・

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幸村

家康公のお言葉、誠にありがたきことです。しかし、それがしにはどれ程の領地を賜ろうとも秀頼様を裏切ることはありません。

真田信尹

なにゆえに・・?

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幸村

それがしは・・はじめから討死覚悟で臨んでおります。

秀頼様への忠義、そして武士として、一族としての誇りがあるのです。
叔父上、これ以上のことは・・・。もう会うこともございませぬ。このままお引き取り下され。

真田信尹

もうなにも言うまい・・・。

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信尹は涙して幸村と別れ、家康の元に戻り、すべてを伝えた。すると家康は・・

家康

なんとあわれな。筋の通った性分か。まさに日本一の勇士じゃ。安房守(=昌幸)にも劣らぬ男じゃ。

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こう言って称賛したのであった。

驚愕の条件で和睦合意へ

こうした中、水面下では講和を目指す家康と豊臣方との間で和睦交渉も始まっていた。

豊臣方では淀殿が権威を振りかざし、どうも意見がまとまらないと伝聞されており、さらに城内では鉄砲や大砲の火薬と鉛が不足しはじめていたようである。

秀頼は味方として身を挺して戦っている牢人衆への処遇にこだわっていた。しかし、家康は敵となって立ちはだかっている彼らを許しがたかったとみられている。
こうしたことから12月8日以降の交渉の議題は、豊臣方の牢人の処遇問題に集中したようである。そして12月15日になってようやく豊臣方から家康に対し、以下のように2つの和睦条件を提示するという動きがみられた。

  1. 淀殿が人質として江戸に行くこと
  2. 大阪城内の牢人に扶持(=武士に米で与える給与)を加増すること

しかし、家康は上記2を不満としてこれを拒否したという(『駿府記』)。

大阪城への一斉砲撃、はじまる

12月16日からは、徳川方による大阪城への一斉砲撃が開始された。
砲撃は大阪城に最も近い備前島で実施され、大阪城本丸や天守にも砲弾が着弾することもあったといい、その砲撃の音は凄まじく、遠い京都にまで届き、その音を聞きながら茶会が催されたともいう。また、一説に本丸への砲撃が淀殿の居所近くに着弾して侍女が7~8人死亡し、これに恐怖した淀殿が一気に和睦へ傾いたという。

12月17日には和議成立の噂が流れたが、翌日に破談になったとされた。また、このころに秀頼から和睦提案もあったらしいが、どうやら不調に終わったようである。

和睦交渉は当初、豊臣方は大野治長・織田有楽斎ら、徳川方は本多正信・後藤光次らが担っていたが、 12月18日、家康は淀殿説得のために常高院(淀殿の妹)を派遣、これに本多正純・阿茶局を補佐につけて送りこんだ。

和睦交渉

交渉は徳川方の京極忠高の陣所で行なわれた。

そして翌12月19日、ついに合意に至ったのである。その内容は以下の五カ条であった。

  1. 牢人ら豊臣の将を不問とする。
  2. 秀頼の知行を安堵する。
  3. 秀頼の身の安全を保証する。
  4. 淀殿の江戸在住(=要するに人質)を不要とする。
  5. 大阪城を開城すれば、望む国を与える。

しかし、条件はこれだけではなく、のちの豊臣家滅亡につながる大阪城の惣構・二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てという驚愕の内容も含まれていたのであった。

12月20日、家康父子より鉄砲射撃停止命令がだされる(『三才雑録』)。
すると、豊臣・徳川双方の兵らが大阪惣構の堀際に集まり、親類や知己の死骸を探し回ったという(『福富覚書』『士談会稿』)。

豊臣の牢人らは赦免されることになったが、この和睦にほとんどの牢人が不満であった。

一説に幸村は徳川の油断を見計らって夜襲を企図したが、家康は警固を厳重にしていたため断念したという(『松代真田家譜』)。また、幸村と後藤又兵衛が家康父子を追撃して江戸に侵攻すべきだと主張したとも伝わる(『休庵咄』)

12月21日、和睦の起請文の取り交わしが完了し、この日から堀埋め立ての手配・工事が着手されたといい、作業は諸大名が総出で昼夜問わず実施されたという。(『大阪冬陣記』『翁物語』)

家康の陰謀!?大阪城が丸裸に

大阪城の埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構であったという(『本光国師日記』『綿考輯録』)。

徳川方が担当した惣構の埋め立ては12月24日にはほぼ完了したといい、一方で豊臣方の担当した埋め立ては難航し、完了は翌慶長20年(1615)1月22~23日頃だったという。

大阪城の埋め立ては家康による謀略説が有力視されていた。外堀だけを埋める約束だったのが、徳川方の強引な解釈ですべての堀の埋め立てを強行したという。

しかし、信頼のおける史料では埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構であった(『本光国師日記』『綿考輯録』)。つまり豊臣方が本丸だけを残して丸裸になるのは了承済みであったということである。

こうしたことから現在は家康による謀略説は疑問視されている。


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