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真田幸隆(幸綱):真田家の礎を築いた幸村の祖父

真田幸綱の肖像画

真田を興し、真田一族の初代当主として知られる真田幸綱。
「攻め弾正」の異名を持ち、後に武田二十四将にも数えられたほどだがら、武田家臣として相当な功績をあげたことが伺える。 彼は武田家に仕えてから、如何にして信頼を得ていったのだろうか?
真田一族の礎を築いた幸綱の生涯を追う。

真田は小県郡の国衆・海野氏か?

幸綱は永正10年(1513)に誕生したとされるが、その出自は以下のように諸説あって謎に包まれている。

  • 海野棟綱の子(『寛政重修諸家譜』『真武内伝』『滋野世記』など)
  • 海野棟綱の子(幸義)の子)(『白川藩士海野氏系図』など)
  • 海野棟綱の娘の子(『白鳥神社海野系図』『小県郡海野白鳥系図』『良泉寺矢沢系図』など)
  • 海野棟綱の娘婿

上記をみると、幸綱は海野氏と深く関わりがあることがわかる。
海野氏は滋野一族の流れを汲む惣領家であり、海野棟綱は信濃国小県郡の有力な国衆である。

上記の説のうち、3の "棟綱の娘の子" 説が通説とされており、『良泉寺矢沢系図』からは、幸綱の父が真田頼昌であることが読み取れる。そして、幸綱という名の「綱」の一字は、海野氏の通字「綱」を継承したものと考えられている。
ただし、近年では系図類の解釈が見直され、上記4の "棟綱の娘婿" 説も提示されているようだ。

いずれにしても、確かな裏付けがないため、史実かどうかはわからないのである。

本領を奪われ、上野国へ逃亡

幸綱は信濃国小県郡の真田郷を本拠として、海野棟綱に従う国衆であったが、彼の幼少・青年期に関しては一切わかっていない。
信濃国は国衆の割拠状態にあったが、やがて甲斐国を統一し、今川氏や諏訪氏との同盟も果たした武田信虎が信濃国への侵攻に着手することになる。

そして、天文10年(1541)5月13日、武田・諏訪・村上の連合軍が佐久・小県両郡への侵攻を開始した。

海野棟綱は尾野山城(上田市)に籠城するも、まもなく陥落し、翌14日には海野平・禰津も連合軍に攻略された。この戦いで棟綱の嫡男・海野幸義は討死したという。
また、幸義の討死を見た幸綱も討死覚悟で敵陣突入をはかろうとしたが、突如現れた巫女が幸綱に鉾を手渡し、「この鉾を使って敵陣を突破して脱出せよ。そして時期を待て。わらわは白鳥明神の使いだ」と言い、姿を消した。こうして幸綱は、思いとどまって敵陣を突破して脱出したという。(『真田御武功記』)

滋野一族は各地で抵抗したが、同25日にはついに大敗し、海野棟綱や幸綱らは上野国へ落ちのびた。 なお、棟綱は関東管領・上杉憲政を頼り、幸綱は上野国箕輪城主・長野業正を頼ったという(『滋野世紀』『真武内伝』)。

一方、幸綱の弟・矢沢頼綱と滋野一族の禰津元直は、諏方頼重に降伏し、その後は本領への帰還を許されたとみられる。 戦後、武田・諏訪・村上の三氏は、旧滋野一族の所領分割を行ない、真田の本領や滋野一族の所領の大部分は村上領となった。
こうして滋野一族は散り散りとなり、敵味方に分かれてしまうことになったのである。

関東管領・山内上杉軍の出陣

上野国へ逃亡した幸綱は、関東管領・上杉憲政の家臣と交流し、箕輪城主・長野業正と親しくなって彼に庇護されたという(『真武内伝』『沼田記』)。一方で海野棟綱らは上杉憲政を頼って平井城に在城していたとみられる。

海野棟綱・真田幸綱らは旧領復帰を、関東管領の上杉憲政に期待していたが、その機会はすぐに訪れた。同年6月、武田家では、信虎嫡男・晴信(のちの武田信玄)と重臣らにによるクーデターが勃発し、信虎が駿河国へ追放されたのである。

武田氏と関東管領の山内上杉氏は同盟関係にあったが、翌7月、武田の軍事行動はないだろうと判断した関東管領の上杉憲政は、クーデターに乗じて信濃国佐久・小県郡に3000余の軍勢を出し、海野氏らの所領の奪取を試みた。
予想どおり武田・村上勢は出陣してこなかったが、諏訪頼重が長窪に出陣。憲政は交戦せずに和睦をして、すぐに軍勢を引き揚げて帰国してしまった。

これは一説に関東での戦線の影響があったとみられるが、以後、上杉軍が幸綱らの旧領帰を支援することはなかった。
こうして幸綱らの旧領復帰の望みは断たれることになった。

信玄に出仕し、本領回復へ

さて、武田氏が信玄の代になってからは信濃国の勢力図と対外関係が大きく変化していく。

天文11年(1542)6月には、諏訪頼重を滅ぼし、諏訪郡を平定。これは前年に関東管領の上杉氏が攻め込んできた際に、諏訪氏が武田・村上の両氏に無断で領土割譲の単独講和をしたからと考えられている。つまり、信玄は勝手に所領を自分の物にした事を盟約違反とし、報復に出たということである。

さらに信玄は天文14年(1545)に、高遠頼継や藤沢頼親を降伏させて上伊那をほぼ勢力下に置いた。そして同年10月には駿河東部をめぐる今川と北条の争い(河東一乱)、そして北条氏と上杉憲政の争いを一気に解決すべく、同時に調停し、今川・北条・山内上杉の三者の和睦を成功させている。
しかし、この和睦を無視して上杉憲政が北条方の河越城を包囲し続けたため、武田・山内上杉間の同盟は事実上破綻となった。

幸綱、武田家臣へ

一方、旧領復帰を望んだ幸綱らはどうなったのか?
海野棟綱らはそのまま関東管領上杉氏を頼ることを選択していたが、幸綱は武田家に出仕することにしたようだ。その時期は以下のように諸説あって定かではない。

  • 天文13年(1544)説:『信陽雑誌』
  • 天文14年(1545)説:『沼田記』
  • 天文15年(1546)説:『滋野世記』『真武内伝』『甲陽軍鑑』

なお『甲陽軍鑑』には、山本勘助が幸綱の才能を見抜いて信玄に推薦したという。また、『真武内伝』によれば、幸綱が長野業正に武田氏に出仕したい旨を正直に打ち明けたところ、業正はこれを咎めず、上信国境まで警固をつけて送り届けてくれたという。

以後、幸綱は武田家臣として村上義清が支配する旧領回復を目指すことになる。

天文16年(1547)、信玄は佐久郡平定に向けて志賀城の笠原清繁を攻めた。このとき武田と手切れとなった関東管領・山内上杉氏が援軍を派遣してくるが、信玄はこれに宿老の板垣信方甘利虎泰ら別働隊を向かわせて撃破し、志賀城も陥落させている。また、これが契機となって翌天文17年(1548)には信玄と村上義清の対決が実現した。(上田原の戦い)
このときは武田軍が村上方に大敗している。なお、幸綱がこれらの合戦に参加していたかどうかはわかっていない。

幸綱が確実な史料で登場するのは、天文18年(1549)3月である。信玄が望月源三郎に700貫文を与える朱印状を発給しているが、幸綱がこれを手渡す使者を務めていることが『高白斎記』に見える。

砥石城を攻略し、本領も回復

天文19年(1550)、村上の支城・戸石城攻めを前して、幸綱は7月2日付で信玄から判物を与えられた。その中で、村上氏打倒を実現した際には1000貫文の所領が約束されている。

砥石城攻めは、北信濃で村上義清が高梨政頼と対陣中の隙を突いたものであり、幸綱は信玄の命を受けて川中島の村上方諸将への調略を行なったとされている。9月9日から砥石攻めが開始され、幸綱の調略も、清野勝照・須田信頼・寺尾氏などが相次いで転じるなど順調にすすんでいた。

しかし、その一方でた砥石城攻めは難攻し、そのうちに村上義清が高梨政頼と和睦して、ともに寺尾氏の寺尾城を攻めはじめたため、23日には幸綱らが救援に向かうハメとなった。その後、村上勢を撤退させたあと、幸綱は29日に帰陣している。

その後、武田軍は軍議で撤退が決定するが、10月1日の撤退時に村上勢に急襲され、殿軍に甚大な被害が出たといわれている。(砥石崩れ)
しかし、これが嘘のように、翌天文20年(1551)5月26日には、幸綱がわずか1日であっさりと砥石城を陥落させてしまうのである。これは砥石城乗っ取りを手引きした内通者がいたと考えられている。

そして天文22年(1553)には、武田が村上義清を越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへ追いやり、ついに幸綱は念願の旧領回復となった。しかし、村上義清らに頼られた謙信が、村上方の本領奪還のために信濃へ進出し、川中島という舞台で武田・上杉間の抗争が展開されていくことになる。

なお、同年8月10日には、幸綱が三男の真田昌幸を甲府に人質として差し出し、その見返りとして信玄から秋和(上田市)の地350貫文の所領を与えられている。『高白斎記』によると、これは小山田虎満を通じて幸綱に伝達されたというから、幸綱は小山田虎満の管轄下に置かれていたと思われる。
また、10月5日には娘を長坂光堅の子息・源五郎昌国に娶らせている。

このようにして、幸綱は武田家臣としての真田の地位を固めていったのである。

幸綱と川中島合戦

幸綱は武田重臣・飯富虎昌や小山田虎満の指揮を受けて、北信地域・川中島の勢力拡大に従ったとみられ、弘治2年(1556)8月には、上杉方の尼飾城(長野市松代町)の攻略を督促され、まもなくこれを陥落させている。

弘治3年(1557)に勃発した第三次川中島合戦では、小山田虎満や幸綱らがこの城に在陣し、水内・更級郡の国衆を統括しながら上杉軍と対峙していたと考えられている。
この戦いで武田方は川中島を掌握し、戦後、信玄は上杉謙信への備えとして防衛体制の構築を急ぎ、永禄元年(1558)4月にそれが決定された。このとき、幸綱は小山田虎満や佐久郡北方衆とともに、埴科郡尼飾城に配備されている。

永禄3年(1560)には川中島の統治の拠点として海津城が築城されたが、尼飾城はそれまで川中島における武田方の重要拠点だったのである。
なお、同年8月には山内上杉家の家督と関東管領の職を継承を将軍に認められ、大義名分を得た謙信が、上杉憲政を奉じて関東に出兵。11月には武田方に属する信濃国人衆らが、自らの領土保全を図るために謙信に祝儀の太刀を贈る動きがみられた。 この中には幸綱も含まれていたという。

そして翌永禄4年(1561)には、川中島最大の激闘となった第四次合戦が勃発。
この戦いで武田軍は軍勢を2つに分け、上杉軍を挟み撃ちにする作戦にしたが、幸綱は上杉軍の背後を狙う別働隊に属していたらしい。なお、幸綱三男の昌幸は、信玄を守る役目として本陣に配属され、初陣を飾っている。

この第四次合戦を最後に、以後、武田と上杉が正面から激突することはなくなる。そして、両軍の戦いは関東に舞台を移し、信玄は同年11月から西上野への侵攻を本格的に開始する。

西上野侵攻で岩櫃城将へ

実は武田の上野国への侵攻は、第四次川中島より少し前から行なわれていたらしい。

上野国吾妻郡では、国衆の鎌原氏と羽尾氏による所領争いがあったが、鎌原氏の援助要請により、信玄は鎌原氏を支援する立場となっていた。そして、これに幸綱も深く関与していたといわれている。

というのも、鎌原氏や羽尾氏はいずれも滋野一族であり、鎌原城主の鎌原幸定は、系図類に幸綱の弟との記録もあるからである。

一方、羽尾氏には上杉方の岩下城主・斎藤憲広が支援しており、永禄5年(1562)3月には鎌原城が齋藤氏によって攻め取られ、鎌原氏は信濃へ逃亡して信玄の庇護下に入ったという。だが、信玄はその後、鎌原氏に上野国衆の調略を担わせ、大戸城主・浦野中務少輔や安中城主・安中越前守重繁らを武田に帰属させ、鎌原城も回復させて鎌原氏を本領に復帰させることに成功したようだ。
以後、幸綱は鎌原城に配備され、西上野戦線に本格的に携わることになった。

幸綱、吾妻郡の抑えとして岩櫃城将へ

永禄6年(1563)10月13日には、斎藤憲広の甥や海野幸光・輝幸兄弟を調略で寝返らせ、斎藤氏の居城・岩下城を奪取している。なお、『加沢記』によれば、この調略を手引きしたのは幸綱の嫡男・真田信綱と小県郡国衆の室賀満正だという。

また、『加沢記』ではこのときの城を岩櫃城と記しているが、これは間違いらしい。岩櫃城と岩下城は近い位置にあるが、別々の城である。
岩櫃城は、武田方の吾妻郡支配の拠点として新たに構築されたものと考えられており、永禄8年(1565)3月13日付の史料が初見であり、幸綱が岩櫃城に配備されていることがわかる。

なお、ここに「真田一徳斎」の名も初めて見えるため、この頃までに幸綱は出家していたこともわかる。ちなみに幸綱の名は一般には”幸隆”の名で知られているが、これは”一徳斎幸隆” とセットで記されるのが基本であり、”幸隆”という名は法名の可能性が高いとみられている。

幸綱はこの年、武田方から離反した齋藤弥三郎の嵩山城を攻めていたとみられ、11月にはこれを陥落させて吾妻郡の完全掌握に成功している。 なお、その間に武田家中では、信玄の嫡男・武田義信と重臣の飯富虎昌らによるクーデター未遂事件があり、虎昌らは首謀者として処刑されている。(義信事件)

信玄は翌永禄9年(1566)9月には、長らく陥落できなかった長野業盛の箕輪城をついに攻略し、西上野の制圧をほぼ成し遂げた。
箕輪城を新たな上野経略の拠点とした信玄は、ここに海津城代の春日虎綱(=高坂昌信)、そして幸綱・信綱父子に移動するように指示し、東上野の侵略を企図した。

家督を譲って隠居

幸綱は春日虎綱の配下として行動したとみられ、永禄10年(1567)3月には、長尾憲景の本拠地・白井城(渋川市)を攻略し、信玄からは「思いもよらない次第」と書状を送られて、その功績を賞賛されている。

また、この頃に家督を嫡男・信綱に譲ったとみられ、その後は上杉謙信への備えとして岩櫃城の守備に専念したとみられる。実際、永禄11年(1568)末から開始された武田軍の駿河侵攻には参加しておらず、信玄から戦況を記した書状を受け取っている。

天正元年(1573)、怒涛の快進撃となった武田軍の西上作戦の途上で信玄が病死すると、翌天正2年(1574)には幸綱も体調を崩し、信玄の後を追うように砥石城で没した。享年62。

墓所は真田家の菩提寺・長谷寺(上田市真田町)にある。肖像は長野県長野市松代町の長国寺所蔵。法名は”月峯良心庵主”。


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