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真田昌輝

真田昌輝(さなだ まさてる、1543?-1575年)は甲斐・武田氏の家臣で信玄、勝頼の2代に仕えた武将。武田二十四将にも数えられる。


経歴

1543年(天文12年)、真田幸隆(ゆきたか)の次男として岩尾城で誕生。幼名は徳次郎。名は信輝とも。兄に真田信綱(のぶつな)、弟に、真田昌幸(まさゆき)、真田信尹(のぶただ)。生誕年は異説あり。

武田氏に従事

兄・信綱らと共に武田氏に仕えるようになると、器量を見抜いた武田信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢されたといい、信濃や上野を転戦して手柄をたてていった。兄・信綱とともに出陣する事が多かったようであるが、単独でも出陣・戦功を挙げたという。

1568年(永禄11年)には父・幸隆に代わって信綱と共に駿河侵攻の先鋒を担っており、翌1569年(永禄12年)の三増峠の戦いでは、信綱や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げた。

1572-73年(元亀3-4年)の武田氏による遠征(西上作戦)にも従軍し、徳川家康軍に大勝した三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めた。

1575年(天正3年)、長篠の戦いでは信綱の左横に陣取り、右翼部隊の一端を担った。設楽原の決戦においては、織田軍の左翼を受け持った佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは首級を挙げるなど奮闘したものの、信綱とともに討ち死にした。享年33。


墓所・子孫など

兄・信綱の菩提寺である信綱寺(現:長野県上田市真田町長8100)に墓がある。また、設楽ヶ原古戦場には兄・信綱と連名の供養墓がある。
法名は嶺梅院殿風山良薫大禅定門

嫡男の真田信正は江戸時代に越後高田藩に仕え、松平忠昌に従って越前に移った。子孫は越前松平家に仕えたといい、今も越前真田家として存続している。

略年表

  • 1543年(天文12年)、真田幸隆の次男として誕生。
  • 1568年(永禄11年)、兄・信綱と共に駿河侵攻に従軍。
  • 1569年(永禄12年)、三増峠の戦いでは兄・信綱と共に殿を務める。
  • 1572年(元亀3年)、西上作戦に従軍。三方ヶ原の戦いでは兄・信綱と共に武田軍の先手を務める。
  • 1575年(天正3年)、長篠の戦いで兄・信綱と共に戦死。


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