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真田信尹(加津野昌春):一族を影で支えた昌幸の弟

真田信尹は甲斐・武田氏の家臣で真田幸綱(幸隆)の四男。武田家臣時代は甲斐の旧族・加津野氏の家督を継ぎ、武田譜代家臣として処遇された。後に松代藩となる大名・真田家とは別に分家である旗本真田家を興す。

加津野氏の家督を継ぐ

1547年(天文16年)真田幸隆の四男として誕生とされる。幼名は源次郎で実名は昌春。3人の兄、信綱・昌輝・昌幸がいる。

1553(天文22)年には父・幸隆が武田氏への忠誠を誓うため、兄・昌幸と共に甲府の武田氏へ人質として出された。

1571年(元亀2年)、信玄は北条綱成の守る駿河深沢城(静岡県御殿場市深沢)を陥落させた。このとき信尹は信玄の下で信州先方衆として活躍し、綱成の指物である黄八幡旗を奪ったとされている。

1575年(天正3年)長篠の戦いで武田親類衆・加津野次郎右衛門尉が討ち死にしたが、後継ぎがいなかった。このとき、老母が次郎右衛門尉の息女を昌春の嫡男・出羽に嫁がせて跡を継がせるという約束があったことを勝頼に訴え出たといい、勝頼はこれを快諾した。

1577年(天正5年)には真田出羽の加津野氏相続が認められたが、出羽はまだ幼少であった。このため、出羽が成人するまでの間は代わりに昌春が名代として加津野の家督を預かり、加津野市右衛門尉と改名した。 また、この時期から昌春は騎馬15騎・足軽10人を率いる槍奉行を務めたとみられている。

1579年(天正7年)、兄・昌幸と同じように武田氏の竜朱印状の奉者の活動を開始。 二宮神主宛の居屋敷諸役免許状を出しており、武田氏の家臣団の一翼を構成した。

武田滅亡後、兄・昌幸を支えるが・・

1582年(天正10年)、武田滅亡、そして続く信長の死後、旧武田領は徳川氏・上杉氏・北条氏による争奪の場となった天正壬午の乱

この戦いでは兄・昌幸と同じく最初は上杉景勝に従属し、牧之島城に配属された。しかし、のちに上杉家から離反しようとしていることが露見した時には、すでに北条氏に転じていた昌幸らの軍勢に保護されている。その後、昌幸とは別行動をとって徳川家に仕えたとみられている。昌幸が北条氏から徳川氏に鞍替えした際には、依田信蕃とともに間を取り持っている。

1583年(天正11年正月)、天正壬午の乱の際に滝川一益の人質を経て、木曾義昌の人質となっていた母・河原氏の件で家康と協議し、木曾義昌から家康の元へ身柄を移している。

その後、どういった経緯があったのかは不明だが、徳川家を出奔して池田輝政を介して会津の蒲生氏郷に仕えるようになった。その後、真田姓に復姓して真田隠岐守信尹を名乗っている。
しかし、1595年(文禄4年)に氏郷が死去した後には退いている。

最終的に徳川幕府に仕えることに

1598年(慶長3年)に再び家康の下へ仕えることになり、その後、使い番に抜擢されて大蔵村(現在の山梨県北巨摩郡須玉町大蔵)に屋敷を構えることになった。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い、1614年(慶長19年)の大坂の陣では徳川軍として参戦。御使番・軍使として功績を挙げ、旗奉行に格上げされた。その後は幕臣として徳川氏に仕え、1632年(寛永9年)に病死。享年86。信尹の家系は、幕府旗本として存続した。


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