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真田信之(信幸):一族の家名を後世にまで残した幸村の兄

戦国期に紆余曲折を経て、真田家を守り、徳川家臣として幕府への忠誠を続けた真田信幸。
真田昌幸の嫡男、そして、幸村の兄でも知られる。

父とともに。激動の幼年・青年期

信幸は永禄9年(1566)に父・真田昌幸の嫡男として信濃小県郡・砥石城で誕生した。通称は源三郎。

この頃の真田家は、武田信玄に出仕した信幸の祖父・幸綱が既に多くの功を立て、武田家中での真田一族の地位を盤石なものとしていた。しかし、やがて武田・真田両家に苦難が苦境が忍び寄ることに・・。

天正元年(1573)には、信濃・西上野・駿河・遠江・東美濃などを席巻した信玄が死去、翌天正2年(1574)にはそれを追うように幸綱も病没した。

信玄の後を継いだ武田勝頼は、積極的に所領拡大を図ったが、それが裏目に出たのが翌天正3年(1575)の長篠の戦いであった。
この戦いで、織田・徳川連合に大敗した武田軍は、信幸の叔父にあたる真田信綱・昌輝兄弟のほか、宿老の馬場信春山県昌景内藤昌豊など、多くの有力家臣が討死するという大きな損害を受けた。

信綱の戦死により、本来は真田家を相続する立場になかった三男の昌幸が、勝頼の命を受けて真田家当主となる。

信幸の元服と結婚

さて、信幸は14歳のときに元服を果たしている。
天正7年(1579)12月、勝頼の嫡男・武田信勝が元服したときに、同時に許されたといい、このときに信玄(または信勝)から「信」の一字を賜り "信幸" と称したという。

このころの信幸は、弟の幸村とともに武田の人質として甲斐国に出仕していたとみられる。また、結婚の時期は定かでないが、正室に伯父・真田信綱の娘を迎えている。

武田が滅び、真田は激動期へ

天正10年(1582)3月には、武田氏は織田・徳川連合によって攻め滅ぼされたが、新府城にいた真田の人質はその直前に解放され、真田領へと帰還したらしい。このときの真田一行には、信幸のほか、母・山手殿(寒松院)や弟の幸村らも含まれていたという。

この後、父昌幸はすぐさま織田信長に従属を申し入れて成功するが、同年6月には本能寺の変で信長が横死した。その結果、織田領になって間もなかった旧武田領(甲斐・信濃・上野)は大混乱となり、すぐに各地の国衆や上杉・北条・徳川といった大大名の争奪戦の場と化したのである。(天正壬午の乱)

--再び主君を失い、争乱に巻き込まれた真田一族。

真田の一大危機であったが、父・昌幸は "織田⇒上杉⇒北条⇒徳川" と次々に主を変え、武田家臣時代に所領していた真田の領地(信濃国小県郡の本領や上野国の岩櫃城・沼田城など)を確保するという、離れ業を展開するのであった。
このときの信幸は、父の指示に従って行動し、岩櫃城確保の際には同城に配備されたようだ。

家康に従属するも、沼田領問題が発生

以後、昌幸ら真田家は徳川家康に属したが、天正壬午の乱で徳川と北条による和睦条件に、甲斐・信濃=徳川領、上野=北条領 とする内容が含まれていた。
沼田領の明け渡しを拒む昌幸と家康との関係は不和となり、やがて昌幸は上杉景勝に転じることになる。なお、信幸は大叔父の矢沢頼綱の指導のもとで、岩櫃城の城代を務めるようになったとされる。

天正13年(1585)、昌幸が上杉方に転じ、真田・徳川の初対決となった第一次上田合戦では、信幸は別働隊として砥石城に着陣し、上田城を攻撃する徳川軍の側面を突き、真田方の勝利に貢献した。なお、徳川兵1300余を討ち取ったことを沼田城に籠城していた家臣らに報告している。

豊臣政権下で徳川と結びつきを強める

一方でこの頃、信長死後に織田家を掌握した豊臣秀吉が天下を掌握しつつあった。
こうした中、昌幸は今後の家康との戦いに備え、徳川と敵対する秀吉に接近したが、その家康が天正14年(1586)に秀吉に臣従し、同じく真田も翌天正15年(1587)に出仕したため、真田・徳川の敵対関係はここに一旦終了した。
それどころか、真田家は秀吉の命によって徳川家の与力大名にされたので、昌幸らは再び家康の配下になったのである。

こうした縁から、信幸は徳川重臣の本多忠勝の娘(小松姫)を娶ることになった。時期は定かでないが、同年の可能性が高い。

小田原征伐と朝鮮出兵

真田や徳川が豊臣大名となり、秀吉が関東の惣無事令(=私闘を禁じた法令)を出したあとも、北条氏はこれを無視し、真田が支配する上野国の沼田領への侵略を続けていた。

天正17年(1589)には、秀吉の仲裁(沼田裁定)によって「沼田領の3分の2=北条氏、3分の1=真田氏」となったが、この直後に北条方が真田の領内の名胡桃城を奪取したため、秀吉は北条討伐(小田原征伐)を決定。
なお、同年頃より、真田家の自領の支配体制は、「昌幸=信濃国小県郡、信幸=上野国吾妻郡や沼田」というように棲み分けされていたらしい。

天正18年(1590)に行なわれた小田原征伐では、真田父子も出陣し、信幸は上野の松井田城攻略で戦功をあげたという。 北条滅亡後には、北条氏に引き渡されていた沼田領3分の2が真田に返還され、父昌幸が信濃国上田3万8千石、信幸が上野国沼田2万7千石の豊臣大名として再出発となった。なお、同年8月には、秀吉の命でさっそく沼田領の検地に着手している。

豊臣政権による天下統一後、天正20年(1592)から開始された朝鮮出兵(文禄の役)では、父昌幸らとともに拠点の肥前国名護屋城に参陣したようだが、渡海はしていない。なお、同年から真田父子は伏見城の普請役を課されている。

文禄3年(1594)には、信幸が従五位下・伊豆守に、弟の幸村が従五位下・左衛門佐に同時に叙任された。なお、信幸とは対称的に、幸村はこの頃に豊臣奉行の大谷吉継の娘を正室に迎え、豊臣とのつながりを強めている。

関ヶ原で父と敵対、戦後は藩政に尽力

慶長3年(1598)に秀吉が病没すると、諸大名との婚姻政策をすすめるなど秀吉の遺命を破って天下を目論む家康と、それを阻止しようとする石田三成らとの対立が激化。そして、慶長5年(1600)には天下分け目の関ヶ原合戦を迎える。

このとき、徳川の与力大名であった真田だが、挙兵した石田三成から密書を受け取った昌幸は、信幸・幸村と3人は話し合いの場を持った。その結果、豊臣氏に縁の深い昌幸と幸村は三成方へ寝返り、信幸は徳川に残ることで袂を分かつことになったのだ。(犬伏の別れ)
なお、この後まもなく、信幸は家康からその忠節を称えられている。

関ヶ原では徳川に忠節を尽くす

そして、関ヶ原決戦を前に、再び真田vs徳川の第二次上田合戦が勃発した。
上田城へ籠城した昌幸らに対し、徳川秀忠隊に従軍した信幸は、幸村が防衛する砥石城の攻略を命じられたが、兄との戦いを避けた幸村が砥石城を明け渡している。なお、上田城を陥落できない秀忠隊は、関ヶ原決戦に向かう途中だったために攻略をあきらめて転進するが、その決戦にも間に合わなかった。
秀忠隊の足止めに成功した昌幸らは石田方の勝利を確信していたというが、肝心の関ヶ原決戦は1日で勝敗がつき、徳川軍の勝利に終わっている。

戦後、信幸は昌幸の旧領である上田領を加増され、沼田領をあわせて11万5千石となった。一方で昌幸・幸村らは、信幸の助命嘆願によって死罪は免れ、九度山への蟄居となり、このように真田父子の明暗は分かれたのであった。

信之の藩政

信幸は家臣への恩賞や昌幸の旧臣の知行を改め、翌慶長6年(1601)には、父昌幸と決別すべく、昌幸の「幸」の一字を捨てて「信之」と改名し、徳川の世で藩政をすすめていくことになる。

慶長8年(1603)頃から上田領の復興が進められていったようだ。というのも、上田領は関ヶ原で真田家の菩提寺・長谷寺(上田市真田町)は焼失、百姓の逃散が相次ぐなどして荒廃しており、戦後に上田城も破却されていたからである。
信之(信幸)は逃散した百姓らに還住を呼び掛ける一方、慶長10~11年(1605-06)頃には上田城の城下町整備をすすめている。また、還住した百姓には普請役の軽減や免除を通達し、百姓の還住を促す政策もとっていたようである。

こうした中、昌幸・幸村は九度山で蟄居生活を送っていたが、かなり貧しかったらしく、信之が仕送りをしていたという。
なお、時期は定かでないが、信之は家臣の河原綱家とともに高野山を訪れ、昌幸のもとを見舞いに訪れている。慶長16年(1611)に昌幸が病没した知らせを聞いた際には、信之は葬儀を執り行えるよう、家康側近の本多正信に確認したが、正信から自重するように諭されたようだ。

一方で信之は、慶長19年(1614)に家老の出浦昌相を "吾妻職方"に、大熊勘右衛門尉を "沼田職方" にそれぞれ任命し、沼田領の検断権を委ねている。

大阪の陣とその後

同年に勃発した大坂冬の陣では、徳川幕府から真田氏にも出陣命令がでている。信之はこのとき病気であったにもかかわらず、江戸まで赴き、代わりに嫡男・信吉と次男・信政を代理で出陣させ、自らは江戸に留まった。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣も同様に、信吉と信政に任せ、信之自身は出陣していない。このときは中風を患って歩くことすらままならなかったという。
周知のように、大阪の陣の結末は、豊臣方に加担した幸村が壮絶な討死を遂げて豊臣家も滅びた。

信之は、戦いに参戦しなかったことで幸村への内通を疑われていたらしく、戦後、上田で厳しい詮議を行なったという。実際、幸村は大阪城の際に、事前に上田の旧臣に参集を呼びかけていたらしい。
信之は豊臣方に加担した者の妻子らを捕縛して上田に集めたといい、幸村家臣の堀田作兵衛の妻子などは京都に送られて、のちに処刑されているのである。

沼田藩の成立と松代転封

天下太平の世となった大阪の陣の後、信之は上田に本拠を移し、沼田領3万石は、嫡男信吉に譲っている。

そして、元和8年(1622)、信之は上田藩6万5000石から松代藩10万石へと加増転封となり、その際に次男信政に1万石、三男信重に7千石を譲ったという。
沼田藩主となった嫡男信吉は寛永11年(1634)に死去したため、次男・信政が信之の家督後継者となる。

ところが、信之はとんでもなく長命であった。
高齢となって隠居を願い出たものの、四代将軍・徳川家綱が幼いこともあって幕府から許可がおりなかったという。そして明暦2年(1656)、ようやく幕府の許可が下りて隠居したとき、信之は91歳という高齢であった。ようやく家督を継いだ次男の信政ですら60歳である。

2年後の万治元年(1568)2月には子の信政に先に発たれ、信之は93歳にしてお家騒動の危機を迎えるハメとった。家督は遺言によって信政の末子・幸道が嗣ぐことになったが、わずか2歳であったため、沼田藩主の真田信直が家督を望み、幕府に訴える事態となったようだ。

信直は信吉の子であり、信之直系の孫であったからそれなりに妥当な主張である。これに対し、信之は幸道を後見することでこの騒動を収めたが、同年10月に没するのであった。享年93。


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