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山手殿(寒松院)

山手殿(やまのてどの、1549?-1613年)は真田昌幸の正室で信幸・幸村・村松殿の母。

山手殿(寒松院)の経歴

山手殿の出自は諸説あり、一般には公家・菊亭晴季の娘とされているが、結婚当時の真田昌幸の身分は武田信玄の奥近習に過ぎないため、公家の娘を妻に迎えるとは考えにくいとされている。

また、武田信玄の養女という記録も高野山蓮華定院に残っているが、夫・昌幸が娘婿であったという形跡はない。その他にも、宇多頼忠の娘とする説、武田家臣・遠山右馬助の娘とする説などがあるが、いずれにしても確固たる見解はなく、研究者によって意見が異なっている。

武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の正室として嫁ぐと、1565年(永禄8年)に村松殿を、1566年(永禄9年)に嫡男の信之を、1567年(永禄10年)に次男・幸村を産んでいる。

1582年(天正10年)の武田家滅亡時には武田の人質として甲斐・新府城下に預けられていたが、家族とともに脱出して真田郷に帰還している。

その後、1586年(天正14年)には信濃・海津城に人質としていたことがわかっており、これは真田家が上杉景勝に従属していたためとされている。

豊臣政権にはいると、秀吉が1589年(天正17年)に諸大名に妻子の在京を命じたため、京都に移ったとみられている。その後、真田屋敷が京都伏見から大阪に移転したのに従い、大阪に移った。

1600年(慶長5年8月)の関ヶ原の戦いの直前、大阪に石田三成が挙兵した際には、昌幸が石田方に加勢したことや大谷吉継からの書状などから大阪で大谷吉継に保護されたと考えられている。

関ヶ原の戦いが終結した後の同年12月13日、家康と敵対した昌幸と幸村は、家臣・妻女とともに九度山に幽閉されたが、山手殿は徳川家臣となっていた嫡男・信之に引き取られ、上田に残った。
その後、徳川家康によって江戸幕府が開かれ、夫・昌幸らの赦免を働きかけをしたものの、その願いは実らずに1611年(慶長16年)に昌幸が九度山にて病死。

時期は定かではないが、山手殿は昌幸・幸村父子が蟄居中に出家して名を寒松院と改めている。

夫・昌幸の死から2年後、1613年(慶長18年6月3日)に死去。法名は寒松院殿宝月妙鑑大姉(かんしょういんでんほうげつみょうかんだいし)。大林寺(長野県長野市)に墓所がある。

山手殿の略年表

  • 1564年(永禄7年)頃、真田昌幸に嫁ぐ。
  • 1582年(天正10年3月)、武田家滅亡時に家族とともに真田に帰還。
  • 1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦の直前で大阪で人質となるも、逃れて上田に帰還。
    合戦後は信之に引き取られて上田に留まるも夫・昌幸と次男・幸村は九度山に幽閉される。
  • 1611年(慶長16年)、夫の昌幸が死去。
  • 1613年(慶長18年6月3日)、死去。


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