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出浦昌相

出浦昌相(いでうら まさすけ、1546-1623年)は透破(=忍者)の棟梁。武田家臣時代には真田昌幸の与力であり、武田滅亡後は真田昌幸・信之に仕えた。


経歴

出浦氏は元々は信濃国衆・村上義清に仕えた国衆であるが、武田信玄が村上義清を越後へ追いやった後に信玄に仕えたという。初見の史料は1574年(天正2年)、被官衆(=武家奉公人・百姓・下人など)が欠落(かけおち)したため、連れ戻しを命じられたというもの。武田家からは甲州透破(忍者)を預けられ、棟梁であったとされている。

1580年(天正8年)には妻と思われる女性の供養を高野山で営んでいる。また、『加沢記』には同年のものとして記された真田昌幸の陣立書に「出浦上総介」の記載が存在していることと、1581年(天正9年)に昌幸が新府城の普請を指示した文書が出浦家に伝わっていることから、武田家臣時代は昌幸の与力であったとみられている。

1582年(天正10年)、甲州征伐による武田滅亡後は川中島四郡の支配にあたった織田家臣・森長可に従ったとされており、まもなくして信長が横死した後、相次ぐ武田遺臣の離反で窮地に陥った森長可を裏切らることはせずに、逃亡の手助けをしたという。

真田家臣として

1583年(天正11年)に在所である信濃埴科郡・出浦城をあとにし、昌幸に従ったとされ、このころの信濃埴科郡は上杉家の支配下にあったという。

その後、沼田領を預かる真田信幸(信之)の家老となり、奉行人として活動した。1614年(慶長19年)には吾妻職方に任命され、信之の朱印状の内容をチェックする役割を果たすなど、奏者も務めている。

晩年には上田藩主となった信之と沼田藩主・真田信吉の両方に仕え、上田・沼田の2つの藩の内政に関与した。

出浦昌相の略年表

  • 1546年(天文15年)、誕生
  • 時期不明、武田氏に仕える
  • 1574年(天正2年)、被官衆の連れ戻しを命じられる
  • 1582年(天正10年)、甲州征伐後、織田家臣・森長可に従属
  • 1583年(天正11年)、真田昌幸に仕える
  • 時期不明、真田信幸の家老となる
  • 1602年(慶長7年)、対馬守を称す
  • 1614年(慶長19年)、吾妻職方に任命される
  • 1623年(元和9年)、死去。


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