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「出浦昌相(盛清)」武田・真田の甲州透破(=忍者)の棟梁

出浦昌相(いでうら まさすけ)は、武田・真田の両家に仕え、秀吉の天下統一後から江戸期に至り、真田信幸(信之)の家老として活躍。透破(=忍者)の棟梁でも知られる彼の生涯について見ていこう。

出自は信濃の国衆

出浦氏は元々は信濃国衆・村上義清に仕えた国衆だったらしく、武田信玄が村上義清を越後へ追いやった後に信玄に仕えたという。 昌相は信濃埴科郡出浦にて、天文15年(1546)に生まれ、のちに武田に仕えたようだが、信玄のころに仕えるようになったのかどうかはわからない。
初めて確かな史料に登場するのは、天正2年(1574)に被官衆(=武家奉公人・百姓・下人など)が欠落(かけおち)したため、武田氏(武田勝頼か?)から連れ戻しを命じられたというもの。武田から甲州透破を預けられ、棟梁であったという。つまり、武田家の忍者集団の親分だったというわけだ。

天正8年(1580)には妻と思われる女性の供養を高野山で営んでいる。また、『加沢記』には同年のものとして記された真田昌幸の陣立書に「出浦上総介」の記載が存在していることと、天正9年(1581)に昌幸が新府城の普請を指示した文書が出浦家に伝わっていることから、武田家臣時代は昌幸の与力であったとみられている。

その後、主家の武田氏は、天正10年(1582)織田信長によって滅ぼされてしまう(甲州征伐)が、昌相は武田滅亡後に川中島四郡の支配にあたった織田家臣・森長可に従ったとされている。だが、まもなく信長が本能寺の変によって横死すると、相次ぐ武田遺臣の離反によって森長可が窮地に陥っている。
そうした中、昌相は男気をみせた。というのも、昌相自身が武田遺臣にもかかわらず、森長可を裏切らることなく、彼の逃亡の手助けをしたというのである。

真田家の家老に転身?

天正11年(1583)、在所である信濃埴科郡・出浦城をあとにし、昌幸に仕えるようになったとされ、このころの信濃埴科郡は上杉家の支配下にあったという。 天正18年(1590)6月、豊臣秀吉による小田原征伐においては、昌幸らとともに従軍して北条方の忍城攻め(忍城の戦い)でも活躍したらしい。 そして、時期は定かでないが、のちに沼田領を預かる真田信幸(のちに信之に改名)の家老となり、奉行人として活動したようだ。また、江戸時代の慶長19年(1614)には、吾妻職方に任命されて、信之の朱印状の内容をチェックする役割を果たすなど、奏者も務めている。

晩年には上田藩主となった信之と沼田藩主・真田信吉の両方に仕え、上田・沼田の2つの藩の内政に関与した。元和9年(1623)に没した。


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