あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

<大阪の陣>全貌まとめ

幸村の大舞台となった「大阪の陣」。これを簡単におさらいしてみよう。

まずは秀吉死後から大阪の陣が起きるまでの流れをおおまかに以下に示す。

  1. 慶長2年(1598年)、秀吉死後、徳川家康と石田三成らが対立。これは家康が秀吉の遺命に背いて諸大名らとの婚姻を進めるなど、五大老筆頭の地位を利用して専横を働いたからである。

  2. 慶長5年(1600年)、天下分け目・関ヶ原合戦で東軍の家康が石田三成勢に勝利。ただ、これで家康の天下となったわけではない。豊臣体制は幼い秀頼が後継者として引き続き継続しており、家康はその後見的立場となっていたからである。

  3. 慶長8年(1603年)、家康が江戸幕府の初代将軍に就任。ここに徳川と豊臣という2大権力が併存することとなる。以後、家康は天下を完全に掌握するため、徳川将軍家の地位を不動のものにしようと務めていく。

  4. 慶長16年(1611年)、徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が実現。秀頼の立派な姿に危機感を抱いたのか、この後から家康は豊臣家を滅ぼそうと決意したともいわれる。

  5. 慶長19年(1614年)8月に方広寺鐘銘事件が起きる。豊臣家では秀吉の17回忌に京都方広寺で大仏の開眼供養が実施される予定であったが、そこの梵鐘の銘文に"国"の文字が刻まれており、幕府は「家康の名を分割したもので、呪うものだ」として問題視し、豊臣家を厳しく追求。これがきっかけで大阪の陣が勃発することになった。

同年10月には家康が大阪城討伐令を発令して、大阪城へ進軍を開始。一方で豊臣方は開戦準備のため、兵糧の備蓄・大阪城とその周辺の防備強化・旧恩ある諸大名や浪人らの招集などに努めた。

また、このとき関ヶ原敗戦後から長く九度山に幽閉されていた幸村も、豊臣方の誘いを受けて脱出し、大阪入城を果たしている。

ちょっと乱暴な説明ではあるが、これがおおまかな開戦までの流れである。

大阪冬の陣

豊臣方の総兵力は3万、7万、13万など諸説あるが、おおよそ10万程度とみられている。一方で徳川方は20万とも50万ともいわれており、圧倒的に徳川軍が有利であったようである。

同年11月にはいよいよ大阪冬の陣が幕を開けるが、どのような展開となったのであろうか?

豊臣方は軍議で籠城戦をすることに決め、大阪城周辺にも多くの砦を構築していた。そして冬の陣の緒戦はこれらの砦で勃発。

結論を先に言ってしまうと、各砦での戦いはすべて豊臣軍の敗北となり、徳川軍に占領されてしまう。

以下に各砦の戦いの流れを記す。

  1. 11月19日 木津川口の戦い
    • 【豊臣方 ×】明石全登(不在)
    • 【徳川方 ○】横須賀至鎮ら

  2. 11月26日 鴫野の戦い
    • 【豊臣方 ×】井上頼次、援軍に大野治長ら
    • 【徳川方 ○】上杉景勝

  3. 同日 今福の戦い
    • 【豊臣方 ×】援軍に木村重成・後藤又兵衛ら
    • 【徳川方 ○】佐竹義宣、援軍に上杉景勝

  4. 11月29日 博労淵の戦い
    • 【豊臣方 ×】薄田兼相(不在)
    • 【徳川方 ○】横須賀至鎮ら

  5. 同日 野田・福島の戦い
    • 【豊臣方 ×】大野治胤ら
    • 【徳川方 ○】九鬼守隆ら

こうして豊臣方の将は大阪城へ撤退し、大阪城は徳川軍によって完全包囲されることとなる。

※出所:by Jmho(2006/10/23)-大坂冬の陣布陣図 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

真田丸の戦い

冬の陣のメイン戦は12月4日に行なわれた「真田丸の戦い」である。

「真田丸」とは大阪城の弱点補強のために城の南に構築した出丸であり、真田隊がここの守備を担当した。

幸村が大活躍した、この戦いの大まかな流れは以下のとおりだ。

  1. 12月3日以前:真田丸の前方の小山で徳川方の前田利常軍に毎日鉄砲をあびせる。

  2. 12月3日:大阪城内で南条元忠が徳川方に内通していたことが発覚。元忠は徳川方に知られないように密かに処刑される。

  3. 12月4日夜明け前:徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直隊が我先にと真田丸に接近。

  4. 夜明けを迎え、霧がはれるとともに開戦となる。徳川方の先手の兵たちは真田隊らの反撃を受けて多くが死傷する事態となる。

  5. 戦いの最中に大阪城内で突如爆発が起こる。これは豊臣方の石川康勝隊による誤爆であったが、 徳川方は内通していた南条元忠の合図だと勘違いして一斉に真田丸へ突撃を開始する。

  6. これを機に幸村はじっくりと引きつけた後で、嵐のように一斉射撃を展開。

このように幸村は、敵を誘い込んでから一気にたたくという父・真田昌幸ゆずりの戦法により、徳川方に大打撃を与えて圧勝した。

幸村にはこれまで父・昌幸と違ってこれといった武勇伝がなかった。
しかし、真田丸での徳川の大敗は近隣諸国にもに知れ渡り、この戦いで幸村の武名は一気に轟いたのである。

徳川による砲撃戦から講和へ

真田丸で大敗した徳川方であったが、その後も家康は大阪城の包囲を続け、さらに大阪城に大砲を撃って"鬨の声"をあげるという作戦にでた。また、同時に水面下で講和交渉もすすめていった。

徳川と豊臣の交渉で一番の問題は牢人の処遇であり、秀頼は徳川に対して牢人衆への扶持(=武士に米で与える給与)の加増を求める等して難航していた。
しかし、徳川方の激しい大阪城砲撃をうけたことで豊臣方が態度を軟化させ、最終的には以下の条件で講和となったのである。

  • 豊臣の牢人衆たちは不問
  • 秀頼の本領安堵
  • 秀頼の身の安全を保証
  • 淀殿の人質としての江戸在住は不要
  • 大阪城を開城すれば、望む国を与える
  • 大阪城惣構・二の丸・三の丸の破却と堀の埋立て

和睦期間中

和睦後まもなく、堀の埋め立てが開始され、慶長20年(1615年)1月22~23日には工事が完了した。

幸村はこの和睦期間中に国元にいる姉・村松殿やその夫の小山田茂誠らに手紙を送るなどしている。 また、徳川方として参戦した甥の真田信吉・信政の陣所を訪れ、かつての上田家臣とも再会して旧交を温めている。

しかし、豊臣家では再び牢人衆の処遇を巡る問題が発生し、結果的にこれが再戦のきっかけとなった。

牢人たちは仕官の口がなく、大阪を離れたとしても生活が困難だったため、豊臣家から扶持が与えられなくなっても大阪に居続けたのだ。

これに対し、豊臣家は以下のように牢人らを召し抱え続けた。

  • 秀頼は冬の陣を戦った牢人らを見捨てられず、やむなく牢人らに金銀を支給
  • 全国から新たに大阪城にやってきた新参の牢人らをも受け入れ、手厚く世話した
  • 大野治房は勝手に配下の牢人らに扶持を支給。再戦を望む牢人らは堀の掘り返し作業を開始

こうしていつまでも牢人を召し抱える豊臣に対し、幕府は豊臣家に大阪城退去を要求したが、 牢人らの反対に引きずられる形で豊臣家はこれを拒否、慶長同年4月に手切れとなり、大阪夏の陣がはじまることになる。

大阪夏の陣

そして、4月には大阪城周辺でいよいよ再戦。大阪城の埋め立てによってその防御機能を失った豊臣方はもはや城外に討ってでるしかなかった。

大阪城の南・道明寺への徳川大軍の集結を防ぐ作戦にでたが、豊臣方は後藤又兵衛や木村重成らの指揮官が討ち死にするなど、結果的に徳川方の道明寺周辺への進出を許してしまう形となってしまうのである。

  1. 4月27日 郡山城の戦い
    • 【豊臣方 ○】大野治房
    • 【徳川方 ×】筒井定慶

  2. 4月29日 樫井の戦い
    • 【豊臣方 ×】大野治房・治胤、塙団右衛門ら
    • 【徳川方 ○】浅野長晟

  3. 5月6日 道明寺の戦い
    • 【豊臣方 ×】後藤又兵衛・明石全登・毛利勝永・真田幸村ら
    • 【徳川方 ○】伊達政宗

  4. 同日 八尾・若江の戦い
    • 【豊臣方 ×】木村重成・長宗我部盛親
    • 【徳川方 ○】藤堂高虎・井伊直孝ら

そしていよいよ、追い詰められた豊臣方は総力戦で徳川の大軍を相手に最終決戦を迎えることとなった。

天王寺・岡山の戦い

豊臣方は真田・毛利らが敵を天王寺に引きよせ、秀頼自らが出陣することを開戦の合図として決戦を行ない、その間に別働隊の明石全登が背後をつくことで前後から徳川軍を挟撃し、家康本陣をターゲットに突撃して討ち取るという作戦を立てた。

※出所:by Jmho(2006/10/31)-大坂夏の陣:天王寺・岡山合戦布陣図 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

そしてついに5月7日、最終決戦となる天王寺・岡山の戦いが始まる。

はじめは双方にらみ合いが続いていたが、先に攻撃を仕掛けてきたのは徳川方の松平忠直隊であった。これに毛利隊が秀頼の出陣を待たずに応戦したことで、やむなく開戦となる。

合戦の流れはおおむね以下のようになる。

  1. 毛利隊は鉄砲競り合いのあと、本多忠朝や真田信吉・信政隊など次々と徳川軍を撃破する。真田隊も続いて松平忠直隊を攻撃。

  2. 天王寺口で激戦が展開される中、和歌山城主の浅野長晟が大阪城へ進軍するのを見た徳川軍は浅野が寝返ったと勘違いする。 さらに毛利隊の活躍等もあって徳川軍に味方崩れが起きる

  3. これを機として毛利隊、真田隊が家康本陣めがけて突撃開始

  4. 一方、幸村と相談した大野治長が秀頼の出陣要請のために大阪城へ戻り、秀頼は出陣準備に取り掛かり、別働隊の明石全登に出陣命令を出した。

  5. 天王寺で毛利、真田隊が家康本陣を崩すほど追い詰める中、豊臣方でも味方崩れが起きる。これが原因で豊臣軍では"戦意喪失"、"逃亡"、"内通者の寝返り"等が連鎖して発生。

  6. その間に数に勝る徳川方は体制を立て直し、天王寺での最終決戦は徳川の勝利となった。このときの退却戦で幸村は討ち死に。

幸村は3度にも渡って家康本陣へ突撃を行ない、本陣は家康の馬印が倒れるなど大きく崩れたといい、家康が切腹を覚悟するほど追い詰めている。しかし、味方崩れによって天王寺での戦線が崩壊すると、満身創痍となっていた幸村は退却、最期は松平忠直隊配下の将・西尾仁左衛門(西尾宗次)に討ち取られたのである。

一方、こうして作戦が破綻した状況の中、秀頼は家臣に止められて出陣できなかった。

豊臣滅亡

別働隊の明石全登が天王寺に向かったときには既に豊臣方は崩壊していた。そして、明石全登は藤堂高虎らの隊と交戦したあとに行方不明となったという。

このころ、既に大阪城内では徳川の内通者による放火で建物が燃え上がっており、天王寺での敗戦を知った秀頼は出陣もできなかった。大野治長は秀頼正室で徳川秀忠の娘・千姫らを城外に送り出して淀殿と秀頼の助命嘆願をしたが、受け入れられなかった。

この日に大阪城は陥落、翌5月8日未明には淀殿と秀頼が自害し、ここに豊臣家は滅亡したのである。


あわせて読みたい
大阪夏の陣/大阪の地で再び!(1615年)
真田幸村トップ / ヒストリー
束の間の和睦(1615年)
真田幸村トップ / ヒストリー
大阪冬の陣/真田丸での激闘(1614年)
真田幸村トップ / ヒストリー

 PAGE TOP