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<大阪の陣>豊臣方のキーマン20名

まずは以下の豊臣体制図をみて、豊臣方の登場人物をざっと確認してほしい。それから個別にざっと登場人物を紹介していく。

豊臣秀頼と首脳陣

豊臣秀頼アイコン

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)

家康に滅ぼされた豊臣家最後の若き当主

豊臣政権下で秀吉と淀殿の間に誕生。のちに豊臣秀次が謀反の嫌疑をかけられて切腹したため、豊臣家の後継者となった。秀吉死後には家督を継いで遺命により、大坂城に入った。

関ヶ原合戦(1600年)では石田三成に与した毛利輝元の庇護下に置かれ、戦後は勝利した家康によって豊臣政権の蔵入地(=太閤蔵入地)を勝手に配分され、幼少の秀頼は直轄地のみを知行する一大名の立場に転落した。しかし、家康が江戸幕府を開設して将軍となった後も、豊臣家の影響力は強くあった。

このため、家康によって大阪の陣(1614-15年)で滅ぼされた。

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淀殿(よどどの)

秀吉死後、豊臣の実権を握った秀頼の母。

本名を浅井茶々(あざい ちゃちゃ)といい、近江の戦国大名・浅井長政と信長の妹・お市の方の間に生まれた有名な浅井三姉妹の長女である。

のちに秀吉の側室となって秀頼を生み、秀吉死後は幼い秀頼の後見人として乳母の大蔵卿局とともに豊臣家の実権を握った。やがて、家康が天下をとって江戸幕府を開くと、豊臣家を臣従させようと目論む家康と対立していった。

豊臣と徳川の最終決戦・大阪の陣がはじまり、冬の陣(1614年)では大坂城本丸への砲撃を受けて徳川との講和を指示、まもなく再戦となった夏の陣(1615年)で秀頼や大野治長らと共に自害した。

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織田有楽斉(おだ うらくさい)

徳川との和平に務めた織田信長の実弟。

家康と懇意の間柄であった有楽斉は大阪の陣で交渉役を務めた一人である。

実名は"長益"といったが、秀吉が天下統一した頃に秀吉の御伽衆となり、出家して "有楽斉" と号した。武人としてはともかく茶人として成功し、茶会などを通して交友関係も広かったようである。
関ヶ原では家康率いる東軍についたが、戦後は豊臣家に出仕を続けて淀殿をサポートし、家康と秀頼の二条城での対面にも尽力している。

家康は冬の陣の開戦前から水面下で豊臣との和睦交渉に動いていたが、このとき有楽斉は交渉役として和平に務めている。結局、開戦となって不本意ながら家康と敵対する羽目になったが、豊臣の将からも信用されていなかったようである。

冬の陣の和睦時にも家康から講和交渉を受け、大野治長と共に交渉を重ねており、子を人質にだしている。
そして夏の陣を前に大阪城を退去して豊臣家から離れ、余生を過ごした。

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大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)

淀殿の乳母。

秀頼側近の大野治長・治房らの母。

淀殿の乳母を努めたことから淀殿の信頼もひときわ厚く、秀吉死後に秀吉正室・高台院(おね)が大坂城を去ると、淀殿とともに豊臣家の政治に関与した。

徳川による豊臣方との開戦の口実となった方広寺鐘銘事件(1614年)では、駿府にいる家康の元へ使者として赴き、家康の意向を大阪城に持ち帰っている。
最期は大阪夏の陣で敗戦した際、淀殿や秀頼、そして子の大野治長らと共に自害した。

豊臣譜代の家臣たち

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大野治長(おおの はるなが)

大蔵卿局の子。

淀殿とは乳兄弟にあたることから親密であったとされ、秀頼の実の父ではないかと疑われもしたとの伝承もある。
秀吉死後に秀頼の側近として仕え、関ヶ原合戦(1600年)では家康に味方したが、その後は再び大阪城へ戻った。

方広寺鐘銘事件(1614年)で片桐且元が謀反の疑いで追放されると、豊臣方を代表する立場となり、 大阪の陣では首脳として軍議でも主導権を握り、幸村や後藤又兵衛らの城外出撃論を却下するなどしている。
最期は秀頼らとともに自害した。

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大野治房(おおの はるふさ)

大蔵卿局の子で治長の弟。

秀吉死後、兄・治長とともに秀頼に仕え、片桐且元の追放後は兄とともに豊臣方を代表する立場となった。

家康の謀略によって大阪城の堀が埋め立てられ、城外での戦いを強いられた夏の陣の戦いで活躍。筒井定慶の守る大和郡山城を落とし、徳川方の兵站基地であった堺を放火するなどしている。また、幸村の隊が家康本隊に突撃した天王寺・岡山合戦では、治房隊も徳川の大軍相手に奮戦したと伝わる。
最期は諸説あってよくわかっていない。

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木村重成(きむら しげなり)

秀頼の乳母・宮内卿局の子。

母が秀頼の乳母を務めたことで幼少期から秀頼の小姓として仕えた。

若くて戦も未経験であったが、大阪冬の陣を前に軍議にも参加している。冬の陣の前哨戦となった今福の戦いでは、豊臣方が劣勢となっていたため援軍に赴いて徳川方の佐竹義宣の軍勢と互角以上に戦っている。
実はこれが重成の初陣であった。

最期は夏の陣の八尾・若江の戦いで、死を覚悟した上で井伊直孝の軍と激突して戦死した。

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薄田兼相(すすきだ かねすけ)

橙武者と嘲笑された元・秀吉の馬廻衆。

出自は不明。一説に小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男といわれ、父が同僚に討たれたためにその敵討ちとして各地を放浪したとされている。また、豊臣政権期に仕官して秀吉の馬廻衆になったとされ、のちに浪人となったという。

冬の陣では博労淵砦を守備していたが、兼相が不在の間に蜂須賀至鎮軍の攻撃を受けて砦はあっという間に陥落させられた。実はこのとき兼相は指揮官でありながら遊郭に出向いており、この失態で味方から見かけ倒しを意味する「橙武者」と嘲笑されたのだ。

夏の陣では道明寺の戦いに参戦し、汚名を晴らすかのように自ら指揮を取って奮戦したが、最期は敵わずに討ち死にした。

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渡辺糺(わたなべ ただす)

槍術に長けた秀頼の武術の師範

秀吉のころから豊臣家に仕えた。のちに秀頼に仕えると、槍の名人だったことで秀頼から武術の師範を任されている。

冬の陣の前哨戦・鴫野の戦いでは指揮官として徳川方・上杉景勝勢と交戦したが、敗退して鴫野砦は奪われている。
夏の陣では道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いなど前線で戦った。しかし、大阪城陥落で命運尽きた最期は城内の千畳敷で我が子を切り殺し、自害して果てた。

大阪城へ集った浪人衆たち

主力の五人衆

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真田幸村

家康本陣めがけて大軍の中で突撃を敢行。

関ヶ原の戦いで家康と敵対したことで九度山に幽閉されていた幸村。しかし、徳川と豊臣の大決戦を前に、秀頼の誘いに応じて九度山を脱出して大阪城へ入城した。

大阪冬の陣では大阪城の出丸・「真田丸」を守備し、その前方にいた徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直らの軍を圧倒。その幸村の戦いの凄まじさに敵方の家康から寝返りのオファーがとどく程であった。

夏の陣では後がなくなった豊臣の軍勢は徳川の大軍の中へとびこんでいった。幸村は敵中突破して後方の家康本陣にまで突入、 その凄まじさは家康に自害を覚悟させるほどのものであったという。

最期は戦い疲れて休息していたところ、松平忠直隊の西尾宗次に発見されて「儂の首を手柄にされよ」との言葉を残して討ち取られた。

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後藤又兵衛(ごとう またべえ)

黒田家に仕えた百戦錬磨のつわ者

黒田家の家臣として関ヶ原合戦に至るまで多くの軍功をあげた武人であるが、慶長11年(1606年)には黒田長政と確執によって黒田家を出奔した。その後は長政にことごとく仕官の邪魔をされた。

そうして浪人を余儀なくされ、大阪の陣の際に豊臣の将に加わったのは生活のためにやむを得なかったという。豊臣方ではその器量に一目置かれる存在となり、主力として戦った。

冬の陣では鴫野・今福方面に出陣して佐竹義宣や上杉景勝勢と交戦した。夏の陣の "道明寺の戦い"では先鋒を務めた。しかし、後続に薄田兼相や真田幸村らの隊が続くはずであったが、到着が遅れたために伊達政宗の隊など徳川の大軍相手に孤軍奮闘。
最期は突撃を敢行して乱戦の中で壮絶な討ち死にとなった。

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毛利勝永(もうり かつなが)

幸村以上の活躍をみせた?猛将

元々"森"の姓であった父が秀吉による九州平定(1587年)で功を立て、"毛利"の姓を与えられた。

関ヶ原では父とともに石田三成方に味方し、戦後は改易となって父共々、土佐の国主・山内一豊に預けられた。かねてから親交のあった山内家では厚遇されていたという。

大阪の陣を前に豊臣家からの誘いの密書が届くと、山内家の監視のある中で脱出して大阪入城を果たした。
冬の陣では大阪城の西北隅を守備した。夏の陣では道明寺の戦いで後続隊として参加。そして、天王寺口の戦いでは幸村同様に最前線に陣を敷いて敵中突破して家康本陣に突入する凄まじい活躍をみせたが、幸村の隊が壊滅して窮地に陥ったためにやむなく大阪城へ撤収した。

最期は豊臣秀頼の介錯を行った後、子の毛利勝家、弟の山内勘解由吉近とともに切腹して果てた。

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長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)

四国の雄・長宗我部元親の四男

元親四男であったが、豊臣政権の九州征伐で元親の嫡男・信親が戦死した際、元親によって長宗我部家の後継者に指名。元親死後には家督を継いで土佐の国主となった。

関ヶ原合戦の後には、西軍に属した事に加え、家督争いが尾を引いて三兄の津野親忠を殺害したことで家康の怒りをかって改易されている。ここに大名家としての長宗我部家は滅びて家臣らは散り散りとなったが、盛親は浪人となって寺子屋の師匠をして生計を立てていたという。
この間もお家再興をすべく、徳川幕府の閣僚に向けて再仕活動をしていたが、豊臣と徳川が対立すると、幕府の京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれるようになったという。

大阪入城の際には旧臣ら1000人ほどの従者を引き連れていたという。
冬の陣では真田丸後方の大阪城内に陣を構え、突撃してきた井伊直孝・松平忠直軍に応戦した。また、夏の陣では"八尾・若江の戦い"で藤堂高虎隊と激突して奮戦していたが、井伊直孝らの援軍が駆けつけてきたために大阪城へやむなく撤退した。

大阪城陥落にともなって逃亡したが、まもなく徳川の兵に捕えられて最期は斬首された。

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明石全登(あかし たけのり/てるずみ)

キリシタン軍団を編成

豊臣政権五大老の一人・宇喜多秀家の家臣であり、宇喜多家のお家騒動で重臣らが出奔したのに伴い、家中を取り仕切った。
関ヶ原では秀家とともに西軍についたが、東軍が勝利したことで戦後、宇喜多家は改易されて主君・秀家は死罪を免れたものの、八丈島へ流された。

一方で全登はキリシタンであったことから、同じくキリシタンで黒田官兵衛の弟・黒田直之を頼り、しばらくは黒田家の庇護下に置かれた。しかし、慶長14年(1609年)に黒田直之が死没すると黒田家を退去している。

大阪の陣では豊臣方の招きに応じて4000もの兵を引き連れて大阪入城を果たしたという。
キリシタン軍団を編成して戦いに臨み、夏の陣では道明寺の戦いに後続隊として参加、次いで天王寺・岡山の戦いでは別働隊として 家康本陣への突入を狙っていたが、豊臣方が壊滅したことを知り、徳川の包囲網を突破して戦場を離脱した。
その後の消息は不明である。

その他の浪人衆たち

塙団右衛門アイコン

塙 団右衛門(ばん だんえもん)

血気盛んでド派手な性格?

豊臣政権下で賤ヶ岳七本槍の一人・加藤嘉明に仕えて鉄砲大将に出世したが、関ヶ原では命令を無視して兵を動かしたことで主君の嘉明から叱責を受け、これに腹を立てて出奔。その後は仕官と浪人を繰り返し、豊臣と徳川の戦いの報を知るや大阪城へ入城。

冬の陣の前哨戦では蜂須賀至鎮の陣に夜襲をしかけ、功をあげた。このとき「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばら撒かせ、加藤嘉明に対して自分は大将の才もあることをアピールしたといわれている。

夏の陣では紀伊の浅野長晟を攻めるため、大野治房の指揮下で出陣。治房は一揆を煽動してからの攻撃を考えていたが、先鋒の団右衛門はこれを待たずに浅野軍と激突。その結果、討ち死にした。

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石川康勝(いしかわ やすかつ)

家康の家老・石川数正の次男。

父は元徳川家の家老で、のちに出奔して秀吉に走った石川数正。

冬の陣では真田丸後方に位置して大阪城壁を守備していたが、配下の将が火薬を誤爆させ、康勝は火傷を負っている。ただ、この騒ぎを徳川方が内応の合図と勘違いして大阪城へ突入してきたことで結果的に幸村(真田丸の戦い)を大勝利に導いた。
最期は夏の陣で幸村とともに前線を戦って討ち死にした。

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大谷吉治(おおたに よしはる)

豊臣奉行・大谷吉継の子。

関ヶ原では父に従って石田三成に味方したが、父・大谷吉継は討ち死に。吉治は落ち延びて、その後は各地を放浪したとされる。

大阪の陣では豊臣の将として大阪入城を果たした。100騎ほどの兵を預けられて指揮官として参戦し、夏の陣では後藤又兵衛が討ち死にした "道明寺の戦い" に参加、最期は天王寺・岡山の戦いで幸村の隊とともに前線で戦ったが、松平忠直の隊に討ち取られた。

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南条元忠(なんじょう もとただ)

伯耆国の国人・南条元続の子。

関ヶ原の戦いでは石田三成方の西軍に与して伏見城・大津城を攻めたが、東軍の勝利によって浪人を余儀なくされる。

大阪冬の陣では旧臣とともに大阪城への入城を果たしたが、伯耆一国という条件を受けて徳川方と通じた。しかし、内通が発覚して真田丸の戦いが行なわれる前日に城内で切腹させられた。

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仙石秀範(せんごく ひでのり)

信濃小諸藩初代藩主・仙石秀久の嫡男。

関ヶ原合戦で石田三成に加担し、家康に与した父・仙石秀久、弟・仙石忠政と袂を分かった。このため、戦後は廃嫡されて浪人となった。

大阪の陣に馳せ参じて指揮官として戦ったが、夏の陣で豊臣方が敗北すると、丹波国へ逃亡したとも討ち死にしたともいう。

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浅井井頼(あざい いより)

近江の浅井長政の子で淀殿の弟

浅井氏が滅亡(1573年)したときに信長の残党狩りから逃れたといい、その後は秀吉に仕えた。

夏の陣で討ち死にしたとされるが、一説に大阪城を脱出して次姉・常高院を頼って京極氏の家臣となったという。


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