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堀田作兵衛

堀田作兵衛(ほった さくべえ、?-1615?年)は真田家の家臣。真田幸村の側室に妹を嫁がせ、その妹は長女・すへ、次女・於市を産んでいる。

堀田作兵衛(興重)の経歴

1600年(慶長5年)、真田昌幸・幸村父子が第二次上田合戦で徳川秀忠隊を撃退したものの、関ヶ原本戦で西軍が敗れたことで高野山へ配流となった際、これには付き従わずに信濃の上田に残ったとされている。

その後、幸村の長女・すへを養女とし、信濃・長窪宿の本陣(=大名が泊まる旅館)石合道定へ嫁がせたという。

1614年(慶長19年)、豊臣家と徳川家の戦いの直前、幸村が豊臣家に誘われて九度山を脱出して大阪城へ入城を果たした際には、作兵衛は妻女を真田一門に預けて幸村を追って入城した。 慶長同年の大坂冬の陣の後には作兵衛宛てに石合道定から書状が届いている。その内容は幸村の状況を訪ねるものであったが、その返書は幸村自ら送っている。

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣にも参戦したが、幸村同様に最期は討ち死にしたという。

戦後、真田信之は上田領を出て大阪の陣で豊臣方に味方した者らを詮議するため、残された妻子や下人らを捕えて上田へ移させた。
作兵衛の妻女も上田へ移されたが、その後、娘は京都で処刑されたともいう。嫡男・又兵衛は石合家に預けられ、1639年(寛永16年)に幕府から詮議を受けたが、長い時が経過していることもあって放免されたという。


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