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「真田×織田」武田滅亡で、生き残る道は服従のみ!?

「真田×織田」の歴史

真田の主家である武田家と織田家とは、かつて同盟関係にあったが、元亀3年(1572)に武田信玄が西上作戦を展開して徳川領に攻め込んだときに破綻し、敵対関係となった。

信玄の死後、後継者の武田勝頼が織田・徳川連合に大敗した天正3年(1575)の長篠の戦いでは、当時の真田当主・真田信綱が討死している。

その後の天正10年(1582)3月、信長はついに武田を滅ぼし、武田旧領である甲斐・信濃・上野・駿河は織田家臣らに分配された。
このときに主家を失った真田昌幸は、一族生き残りのために信長に臣従している。そして信長は上野一国と信濃国・小県郡を与えた滝川一益の配下に、真田を置くことにした。

しかし、同年6月には本能寺の変で信長が横死。織田領となって間もない武田旧領は、動揺が広がって武田旧臣や北条・上杉・徳川といった周辺大名らによる争奪戦の場と化した。(天正壬午の乱)

滝川一益は北条氏直に攻め込まれて敗戦し、人質を伴って上野国からの脱出を図った。なお、この人質の中に、昌幸の母・河原氏や真田幸村が含まれていたらしく、滝川一益が信濃国の木曽郡を通過させてもらう引き換えとして、人質らが木曾義昌に引き渡されたという。

滝川一益は命からがら本拠の伊勢国へ逃げ帰り、羽柴秀吉が本能寺の変から1年足らずで織田家の覇権を握り、信長の天下統一事業を引き継ぐことになった。

織田家の将

織田信長アイコン

織田信長

群雄割拠の世で、天下に最も近かった男

真田の主家である甲斐武田家を滅ぼした時点では、信長率いる織田政権は戦国大名の中で最大勢力を誇っていた。

信濃を本領とする真田一族にとっては脅威の敵となり、昌幸は武田滅亡後に上杉でも北条でもなく、織田家に臣従することを選択。このとき、昌幸から馬を贈呈されて臣下の礼をうけ、これに対して信長は令状を送っている。

しかし、まもなくして本能寺の変(1582年)が勃発したことで信長は非業の死を遂げ、真田家は再び後ろ盾を失うこととなった。

滝川一益アイコン

滝川一益(たきがわ かずます)

甲州征伐後の武田領分割で上野国と信濃の佐久・小県郡を支配

信長の重臣で織田四天王の一人に数えられている。甲州征伐(1582年)による武田滅亡後には、旧武田領の上野一国と信濃国の小県郡・佐久郡を信長から拝領され、その配下に真田一族が組み込まれ、関東の鎮定をまかされた。
しかし、信長の横死によって旧武田領の争奪戦が発生すると、上野に北上してきた北条氏直に神流川の戦い(1582年)で敗退。昌幸の手助けもあってかろうじて織田領へ逃亡することとなった。信長の生前か死後かは不明だが、昌幸から人質として幸村と昌幸の母・河原氏を預かったとされている。

家臣アイコン

森長可(もり ながよし)

甲州征伐後の武田領分割で信濃川中島四郡を支配

甲州征伐(1582年)では先鋒として功をあげ、上野国へも侵入して小幡氏ら上野国衆を降伏させていき、その功で旧武田領の信濃国・川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)を与えられ、海津城主となった。
しかし、本能寺の変(1582年)が勃発し、信長の死が知れ渡ると、配下の旧武田家臣であった信濃国衆らは出浦昌相(盛清)を除き、ほぼ全員が離反。昌相の協力も得て、かろうじて美濃へ逃げ帰った。なお、昌相には深く感謝して脇差を与えている。

家臣アイコン

河尻秀隆(かわじり ひでたか)

甲州征伐後の武田領分割で甲斐国の大半と信濃諏訪郡を支配

黒母衣衆の筆頭を務め、信長の嫡男・織田信忠の補佐役となって信忠軍団の副将を努めた。甲州征伐(1582年)後には、穴山梅雪の甲斐河内領を除く甲斐国と信濃国・諏訪郡を与えられた。
信長死後、情勢の不安定な旧武田領の各地で武田遺臣が国一揆を起こす中でも、秀隆は甲斐に留まった。甲斐の支配をもくろんだ家康が秀隆を美濃国に帰るように促すため、家臣・本多信俊を使者として送っているが、秀隆はこれに応じずに信俊を殺害している。
しかし、その後、武田遺臣に殺害された。




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