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【図説】真田と徳川家の関わり

真田家の宿敵


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徳川家康(とくがわ いえやす)

昌幸・幸村父子の因縁の敵

真田昌幸・幸村父子にとって共通の強大な敵であるが、信幸(信之)にとってはのちに恩顧に報いる主君となる。

昌幸には2度も従属下に置きながらも、離反を発端とした上田合戦(1585年、1600年)で苦渋をなめさせられたが、関ヶ原合戦(1600年)に勝利した後は昌幸・幸村父子を高野山へ追放した。

大阪の陣(1614-15年)においては豊臣方の将として招かれた真田幸村らと激戦を繰り広げ、最終的に幸村を討ち取って豊臣氏を滅ぼすが、幸村にあやうく命をとられるところまで追いつめられた。


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徳川秀忠(とくがわ ひでただ)

江戸幕府を開設した家康の後継者

関ヶ原の戦い(1600年)では石田三成との本戦に向けて家康率いる本隊が東海道を進む中、別働隊を率いて中山道を進んでいった。その途中で反旗を翻した真田昌幸・幸村父子を討伐するために第二次上田合戦(1600年)で交戦し、昌幸の策によって攻めあぐねていた。その後、関ヶ原本戦に向かったものの、結局間に合わずに家康に叱責されている。

江戸幕府が成立してからまもなく、家康の隠居にともなって第2代征夷大将軍に就任。大坂の陣(1614-15年)にも参戦し、豊臣家を滅ぼした。その後は、各種法令を制定して朝廷や武家を統制するなど、江戸時代の武家政権の基礎を確立させた。


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本多正信(ほんだ まさのぶ)

のちに幕政を牛耳った家康の腹心の友

知略をもって家康・秀忠の徳川2代に重用され、徳川家を支えた。秀吉死後の覇権をめぐって家康が行なった謀略の大半は実は正信の献策とされている。

関ヶ原合戦の際には秀忠隊に属し、第二次上田合戦(1600年)で真田昌幸らの籠もる上田城を攻めあぐねた秀忠に対し、攻撃を中止するように進言している。また、大坂の陣(1614-15年)でも家康に多くの献策をしたとされている。

江戸幕府においては老中となって、幕政の中枢となって絶大な権勢を振るった。


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本多忠勝(ほんだ ただかつ)

真田信幸(信之)の岳父で徳川家最強の武将

幼少から家康に仕え、驚愕の武勇伝をもつ男であり、徳川四天王にも数えられた。真田家が豊臣大名になった後、娘の小松姫を真田信之に嫁いでいる。

関ヶ原合戦(1600年)後の昌幸・幸村らの高野山配流決定は、2人に死罪を命じていた家康に対し、信幸とともに忠勝が助命嘆願を働きかけたものであった。


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酒井忠次(さかい ただつぐ)

徳川四天王筆頭で家老職も担った徳川家中最高位の重臣

家康の父・松平広忠の代から仕え、今川氏への人質時代を過ごした幼少の家康を支え、家康が独立すると家老に取り立てられた。信長死後の天正壬午の乱(1582年)では信濃国衆の調略などを手掛けている。

同じ家老職である石川数正の出奔後の1586年(天正14年)には徳川家中で最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されたが、その後は老齢・病によってまもなくして隠居した。


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石川数正(いしかわ かずまさ)

家老として重用された家康の片腕

今川義元の人質時代の家康から近侍として仕え、のちに家老となって酒井忠次とともに徳川家の政務を担い、信長死後は家康の命で織田家の覇権を握った羽柴秀吉との取次役を任された。

小牧・長久手の戦い(1584年)で秀吉と対立した後、突如出奔して秀吉のもとへ逃亡。このとき家康は真田昌幸を相手に第一次上田合戦(1585年)で兵を出陣させていたが撤兵を余儀なくされた。出奔の原因は定かではないが、数正は秀吉との開戦反対派で関係改善に尽力しており、徳川家中で開戦の方向に傾いていたことと秀吉の調略を受けたことなどがその要因となったとみられている。


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大久保忠世(おおくぼ ただよ)

天正壬午の乱で真田昌幸の懐柔に貢献

天正壬午の乱(1582年)では徳川の先発隊として甲斐へ向かって甲府を占領するとすぐに信濃国諏訪郡の攻略のために諏訪へ進軍したが、諏訪頼忠の懐柔に失敗。その後は戦局打開のために北条方に与していた真田昌幸を味方につけようとした際、信濃佐久郡で北条方と奮闘していた徳川方の依田信蕃にその旨の書状を送るなど、昌幸を説得することに関与している。

真田昌幸の裏切りで勃発した第一次上田合戦(1585年)では指揮官のひとりとして鳥居元忠らとともに上田城を攻めたものの、昌幸の策を前に大敗を喫している。


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鳥居元忠(とりい もとただ)

第一次上田合戦で昌幸に撃退された家康の忠臣

天正壬午の乱(1582年)の戦いのひとつ・黒駒合戦では家康の背後を狙い、甲府へ進軍してきた北条氏忠・氏勝軍を撃退する功をあげた。しかし、大久保忠世らとともに指揮官のひとりとして参戦した第一次上田合戦(1585年)では真田昌幸に撃退された。

秀吉死後の家康による上杉景勝討伐の際には畿内の守りとして伏見城を預かるが、石田三成の挙兵後に関ヶ原合戦の前哨戦となった伏見城の戦い(1600年)で討死した。


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