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【図説】真田と北条家の関わり

上野国の沼田領を舞台に真田一族が幾度も交戦した強敵。

信長死後の天正壬午の乱(1582年)では上野・信濃へと侵攻した際、真田昌幸を一旦は従属下に置くも、すぐに徳川方に転じられ、ゲリラ戦を展開されて苦戦した。このときの戦いで徳川方と和睦した際の条件を巡り、いわゆる”沼田領問題”が発生し、以後、真田一族とは何度も上野国で激突した。

豊臣政権下で行なわれた沼田領の裁定により、沼田領問題はようやく解決したが、その直後、名胡桃城奪取事件(1589年)を引き起こし、真田領となった名胡桃城を奪い取ってしまった。これが秀吉による私闘禁止令にふれ、小田原征伐(1590年)となって北条家は滅亡の道をたどった。


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北条氏政(ほうじょう うじまさ)

隠居後も実権を握り続けた北条家の第4代当主

御館の乱(1578-79年)をきっかけに甲相同盟が破綻して武田勝頼との戦いが開始されると、1580年(天正8年)には真田昌幸や矢沢頼綱らに猿ヶ京城・名胡桃城・沼田城などを奪われ、沼田領を失った。 一方で同年に信長の脅威を恐れて織田政権への従属を示しており、まもなくして氏直に家督を譲って隠居している。なお、このとき実権はそのまま掌握する形とした。

武田滅亡に続く本能寺の変(1582年)での信長の死を知ると、すぐに旧武田領の制圧のために氏直に大軍を預けて上野国へ侵攻を開始させた。天正壬午の乱(1582年)では真田昌幸が従属していた一時、沼田城と岩櫃城をその手中におさめることを公言していたという。このためか昌幸は乱の途中で離反し、徳川方に転じている。
乱の終結後も上野・沼田領を引き渡さない真田昌幸と対立する中で、1585年(天正13年)には北条氏の最大版図を築き上げた。

豊臣政権下では1588年(天正16年)に秀吉から氏政・氏直父子に対し、聚楽第での後陽成天皇の行幸への列席という上洛要請がなされたが、これに応じなかった。しかし、まもなくして秀吉の軍事圧力に屈し、その軍門に降った。沼田領の裁定(1589年)後は出仕の約束をして上洛の準備にかかっていたが、名胡桃城奪取事件(1589年)が起きたことで処罰を恐れ、結局は上洛しなかった。
小田原征伐(1590年)の際には小田原城に籠城し、降伏後は助命叶わずに切腹を命じられた。


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北条氏直(ほうじょう うじなお)

武田信玄の血をひく北条家の第5代当主

父・氏政の隠居によって若くして後北条氏の第5代当主となるが、北条家の実権は依然として氏政にあった。信長死後の天正壬午の乱(1582年)では大軍を率いて上野国へ侵攻し、織田家臣・滝川一益軍を撃破すると、その後は信濃・甲斐へと進軍して徳川方と激しく交戦した。戦後は徳川との和睦で家康の娘・督姫を娶っている。

豊臣政権下で関東・奥羽の惣無事令(1587年)が発令された際、秀吉との交渉に臨んだ。 1588年(天正16年)の聚楽第行幸への列席という秀吉からの要請には応じなかった。 名胡桃城奪取事件(1589年)が惣無事令違反として秀吉から宣戦布告を受けた際に行なわれた小田原評定(=北条家の重臣会議)では穏健派であったと知られている。

小田原征伐(1590年)で敗戦した後には高野山へ追放となり、その翌年に秀吉に赦免されたが、まもなく病没した。


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板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)

北条家の外交僧

外交交渉の他、右筆・評定衆・寺社奉行としても活躍。天正壬午の乱(1582年)では家康との和睦を取りまとめている。また、北条氏が豊臣政権に服属した後の秀吉の沼田領の裁定(1589年)では出頭して沼田領問題の経緯を秀吉に報告している。

小田原征伐(1590年)での北条滅亡後は秀吉の御伽衆となり、秀吉死後は徳川家康に接近して関ヶ原の戦いでは家康方についた。


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北条氏照(ほうじょう うじてる)

兄・氏政とともに小田原征伐で死罪となった北条一族の将

北条氏政の弟で北条氏康の三男。上杉・伊達・蘆名・佐野氏など、周辺勢力との取次を担った。

天正壬午の乱(1582年)では5代当主・北条氏直に従軍。
小田原征伐(1590年)では居城・八王子城には重臣を置いたが、前田利家・上杉景勝・真田氏らの北国軍に攻略された。自らは小田原城に籠城し、降伏後は主戦派と見なされ、兄・氏政とともに切腹を命じられた。


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北条氏邦(ほうじょう うじくに)

名胡桃城奪取事件の当事者ともみられる沼田攻めの指揮官

北条氏政の弟で北条氏康の四男。天正壬午の乱(1582年)では5代当主・北条氏直に従軍。 戦後は沼田攻略の指揮官として委ねられ、真田方で沼田城代の矢沢頼綱らと幾度となく交戦し、豊臣政権下で関東の惣無事令(=私闘を禁じた法令、1587年)が出された後も侵攻を繰り返した。

秀吉による沼田領の裁定(1589年)後、配下の猪俣邦憲が引き起こした名胡桃城奪取事件(1589年)は、黒幕であるともいわれている。

小田原征伐(1590年)では小田原城での籠城でなく、野戦を主張したという。前田利家・上杉景勝・真田氏らの北国軍が侵攻してくると、居城・武蔵鉢形城を包囲されて降伏開城した。
戦後、前田利家の助命嘆願によって許され、利家の家臣となって金沢で死去した。


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猪俣邦憲(いのまた くにのり)

名胡桃城奪取事件の実行犯

沼田攻めの指揮官・北条氏邦配下の武将。天正壬午の乱(1582年)の最後の戦後処理で、真田氏と北条氏が対立していた上野・沼田領問題を巡り、豊臣政権下において秀吉が沼田領の裁定(1589年)で沼田城=北条氏、名胡桃城=真田氏 とする決を下した。名胡桃城は沼田城の目と鼻の先にあり、かつ、沼田城より高台にあった。

同年に沼田城が真田から北条方に引き渡されると、同城には邦憲が入城するが、まもなくして邦憲は調略によって名胡桃城を奪い取り、名胡桃城代で真田家臣の鈴木主水を自害に追い込むという事件(名胡桃城奪取事件)を引き起こした。

この事件は、秀吉がすでに発令していた関東の惣無事令(私闘を禁じた法令)に違反するとみなされ、豊臣政権による小田原征伐(1590年)のきっかけを作ってしまった。


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大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)

天正壬午の乱で信濃佐久郡を最後まで支配した猛将

信長死後、天正壬午の乱(1582年)では北条氏直・氏邦らの上野・信濃・甲斐への侵攻に従軍し、信濃国・小諸城主となって信濃佐久郡を支配。戦いの終盤に徳川方の反撃で劣勢となる中、最後まで小諸城を守り抜いている。

小田原征伐(1590年)では前田利家・上杉景勝・真田氏らの北国軍と戦い、上野・松井田城で降伏を余儀なくされた。その後は豊臣方に与されて道案内を務めたが、戦後に秀吉に赦されずに自害した。


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