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「小山田茂誠」村松殿の夫

小山田茂誠は真田昌幸長女・村松殿の夫で、甲斐の国衆・郡内小山田氏の一門である小山田弾正家の出身。

茂誠の「茂」の字は、主君であり、甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆であった小山田信茂から1575年(天正3年)に偏諱を受けたものと考えられている。

「小山田氏系図」によると、1582年(天正10年)の武田家滅亡時には21歳~22歳であったとされている。また、父はこのときに関東の北条氏を頼って臣従した小山田有誠とされ、茂誠は父とともに武蔵鉢形(埼玉県大里郡寄居町)に亡命したとみられている。

北条氏が滅亡した1590年(天正18年)には、真田昌幸から信濃国・小県郡村松郷(長野県青木村)を与えられ、真田の家臣となってこの地を本領としている。さらに、その後の1598年(慶長3年)、昌幸から官位・壱岐守を与えられ、真田の姓を許されている。

1600年(慶長18年)の第二次上田城の戦いでは昌幸とともに上田城に籠城して徳川秀忠隊を撃退するも、関ヶ原合戦で家康率いる東軍の勝利によって昌幸が高野山へ配流となった際、それに付き従わなかった。

その後は真田信之に仕え、九度山蟄居中の昌幸・幸村父子と手紙を交わしている。幸村からは昌幸死去の際、自身の身体の衰えを嘆いた手紙を受け取っている。また、大阪冬の陣の後にも大阪城から返書が送られている。

妻の村松殿、子の之知ともに先立たれており、高野山の宿坊・蓮華定院に度々供養を依頼している。

1637年(寛永14年)に死去。法名は霊雲院殿龍山如白居士(れいうんいんでんりゅうざんにょはくこじ)。


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