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武田滅亡時の真田一族の動向は?

武田滅亡時、真田一族はどこに?

武田滅亡の直前、昌幸の家族はどこで何をしていたのか?

武田勝頼は家臣らに人質を提出させており、『長国寺殿御事蹟稿』によると、真田昌幸の家族も人質として新府城にいたという。

幸村も人質に入っていたのか?

では幸村や兄・信幸も人質となっていたのであろうか?

"平山優"氏は少なくとも信幸に関しては人質として新府城にいた可能性が高いといった見解を示している。その根拠として、甲斐で勝頼の嫡男・武田信勝が元服して形式的に武田家当主となった時(1579年頃か?)、源三郎(=信幸)もこれに倣って元服して信勝より「信」を与えられたという記録がある(『滋野世紀』『真武内伝附録』『大鋒院殿御事蹟稿』)。このことは事実の可能性が高く、勝頼のもとに信幸がいたのではないか、と推察している。

ちなみに平山氏は幸村に関しては特に言及していないが、素直に考えれば兄・信幸とともに新府城にいたのであろう。

武田家の当主が変わったことで武田一族や家臣らが一斉に官途を変更。このときに昌幸も喜兵衛尉から"安房守"となったという。

人質のその後は?

どうやら人質は新府と甲府に分けて置かれ、真田昌幸・木曾義昌・保科正直らの人質は新府に、穴山梅雪・小笠原信嶺らの人質は甲府にいたという。武田滅亡を目前に迎えていた人質たちはその後どうなったのであろうか?
以下に一覧にまとめてみた。

  • 木曾義昌の人質:母・長女・嫡男の3名が処刑(『甲斐国志』ほか)
  • 小笠原信嶺の人質:信嶺の裏切りで母が自刃(『開善寺過去帳』)
  • 穴山梅雪の人質:家臣が穴山氏の本拠・下山へ移動させた。
  • 保科正直の人質:家臣の機転で嫡男・正光が新府を脱出した(『保科御事歴』)
  • 真田昌幸の人質:全員勝頼から返還された。

こうしてみると上記の武田家臣の人質で、真田昌幸の人質以外、処刑か逃亡となっている。真田昌幸を除いた勝頼家臣はみな、武田滅亡が迫る中で勝頼を裏切っているから当然と言えば当然であるのだが・・。
なお、昌幸の人質のその後については詳細を後述する。

昌幸は武田の最終軍議で本当に献策をしたの?

穴山梅雪の裏切りをきっかけにいよいよ追い詰められた武田勝頼は新府城で武田最後の軍議を開いたわけであるが、『甲陽軍艦』にこのとき昌幸が上野・岩櫃城に武田軍をすべて結集させて決戦することを献策したとあり、『甫庵信長記』にもほぼ同様の記録が残っている。
しかし一方で、比較的信頼性の高い軍記物『甲乱期』にこの記録はなく、実際に昌幸がこの献策をしたという確証はないようである。

結果的に昌幸の献策は退けられたが、勝頼は昌幸に恩義を感じていたのか、『加沢記』にはこれを気にした勝頼が人質であった信幸を招いて帰国を許したという。

昌幸の献策の真偽はともかく、もし勝頼が昌幸とともに行動していたら・・・。
歴史に "もし" を言っても仕方ないが、武田滅亡の一つ一つの過程を見るとつい考えてしまうのである。

昌幸と人質であった真田一行はどこへ?

武田最後の軍議で昌幸の献策を退けた勝頼は小山田信茂を頼って岩殿城へ向かい、一方の昌幸は勝頼と離れて岩櫃城へ向かった。

『長国寺殿御事蹟稿』では「昌幸は甲斐から命からがら上野・岩櫃城に帰還することができた」というように、この時の様子が伝わっている。また、新府城に置かれていた昌幸の人質は全員勝頼から返還されているが、これについて"丸島和洋"氏は、勝頼が昌幸のこれまでの忠節に報いたとみている。

では人質の身から解放された真田一族のその後の動向はどうだったのであろうか?

武田最後の軍議の後の真田一族の動向の記録は諸説あり、新府城を脱出したことは共通しているが、向かった先や経過はそれぞれ異なっているようである。以下に新府城脱出の諸説を紹介する。

  1. 『古今沼田記』:脱出したのは幸村、信幸、山手殿の他、家来と与力を合わせて三百余人。幸村一行は信濃の本領である真田を目指したが、不穏な情勢下で次々と脱落して百人程に減ってしまったが、矢沢・大熊・木村らが真田母子を守り、野武士に襲われることもなく真田郷に辿り着いたという。
  2. 『滋野世紀』:昌幸自身が妻子ら真田一族を引き連れて新府を出立。岩櫃城へ向かったが、途中でたびたび一揆の襲撃に会い、これを撃退しながら進んだという。一行は女中も馬に乗せて昼夜問わずに先を急いだが兵糧・飼葉も尽きて疲労困憊したという。そうしたところ、先の山より弓・鉄砲を備えた武装集団が現れた。
    昌幸らはまたもや襲撃かと身構えたが、武装集団は昌幸ら一行を心配した沼田衆や吾妻衆らであったといい、無事に岩櫃城に辿り着いたという。
  3. 『真武内伝』:昌幸ら一行は飢えと疲れに悩まされながらも、小諸から草津街道を経て沼田へ帰ったという。

これらの説のいずれかが史実なのか、それとも別にあるのかはわからないが、NHK大河 "真田丸" では1の説に脚色を加えているようである。

武田滅亡を目前にして昌幸は裏切らなかったのか?

昌幸は武田滅亡の5日前、沼田城を守備する叔父の矢沢頼綱に書状を送り、沼田城を北条氏から死守するための指示を出している。 また、一方で武田滅亡の翌日には北条氏邦から書状を受け取っている。これは白井長尾憲景を通じてすでに北条氏に帰属を打診しており、本格的交渉に移った書状であった。

『長国寺殿御事蹟稿』によると、武田滅亡を知ったときの昌幸は泣き叫び、土壇場で裏切った小山田信成を復讐しようといきり立ち、周囲に諌められたという。

武田滅亡直前の昌幸のこうした動きについて、前出の平山氏と丸島氏は以下の2つを推察している。

  1. 真田が生き残るために、新たな従属先を模索していた。
  2. 北条氏の支援を得て、武田家存続を模索した。

しかし、平山氏は ”昌幸の北条氏に対する和戦両様の備えであり、状況に応じて今後の去就を考えていたのだろう” とみている。一方の丸島氏も上記2に関しては"北条氏は既に織田政権に従属を表明していたため現実味を欠く"としている。

このように昌幸の真意は2つが推察されてはいるものの、実際には上記1の推察が圧倒的に有力なようである。

こうした昌幸の意図がもし上記2のように武田家存続を模索したものだとしたら?・・・・。

・・・・だとすると、秀吉に「表裏比興」と評された昌幸のイメージとは随分と異なる気がするのである。


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