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真田幸村の名言・逸話まとめ

大阪冬の陣(幸村48歳)

城外への出撃を主張

慶長19年(1614年)、大阪冬の陣が開戦となる前の豊臣方の軍議で、幸村は城外へ出撃して迎え討つという積極策を主張した。籠城戦となれば兵糧や弾薬が底をついて降伏に追い込まれる、もしくは城内で徳川方に寝返る者がでると言い、城外に出るしかないと訴えた。しかし、結局は豊臣方の総帥・大野治長らの反論によって幸村の主張は退けられたという。

真田丸の守備は幸村だけでない?

真田丸は幸村隊だけが守備していたと世間で考えられているが、実際は長宗我部盛親隊と半分で守備したという(『長澤聞書』)。

敵を大虐殺

真田丸の攻防で幸村は敵をぎりぎりまで引きつけ、一斉射撃によって一気に大打撃を与えて快勝した。
イエズス会の報告集は、この様子を「かつてない大虐殺が行なわれ、その光景は鉛の涙を目にするのと同じくらい信じられないものだった」と伝えている。

家康から破格の条件の誘い

真田丸の戦いでの幸村の凄まじい武勇を目の当たりにした家康は、真田信尹を派遣して幸村に破格の条件を提示してたびたび調略を試みた。しかし、幸村はこれを拒否したという。

大阪の陣の和睦期間(幸村48歳)

和睦後、家康への襲撃を計画

和睦成立した後、幸村は徳川方の油断を見計らって夜襲をもくろんでいたが、和睦に関して豊臣方の牢人衆らの大半が不満を持っていたことから家康はこれに備えて警備を厳重にしていた。このため幸村は夜襲をあきらめたという(『松代真田家譜』『山下秘禄』など)。
また、後藤又兵衛とともに家康父子を追撃して江戸に侵攻するべきとの主張をしたという(『休庵咄』)。

甥っ子、かつての旧臣たちと再開

束の間の和睦の際、徳川方として参戦した真田信吉・信政兄弟の陣所へ訪れた。2人の甥っ子の他、かつての旧臣であった矢沢三十郎頼幸らとも会って酒を酌み交わして旧交を温めたという。

旧友との今生の別れ

束の間の和睦の際、武田の旧臣で旧友の原貞胤(はら さだたね)を招待し、討ち死に覚悟の思いを告げ、今生の別れをしたという。

姉・村松殿に手紙を送る

束の間の和睦の際、幸村は姉・村松殿に手紙を送っている。その内容は冬の陣で無事死なずにすんだこと、会って話をしたいこと、自分の大阪での現状は特に何事もないこと、姉の夫・小山田茂誠に何度も会ったがゆっくり話せてないこと等を綴っている。

大阪夏の陣(幸村49歳)

幸村が軍議で発言するも・・

慶長20年(1615年)、夏の陣の開戦を前に豊臣方は軍議を開いた。
豊臣陣営は冬の陣の和睦により、既に大阪城の堀が埋め立てられてしまったため、もはや城外に討ってでるしかなかった。幸村は秀頼自らも出陣して伏見城を陥落させ、上洛して政務を執るという提案をしたが、軽々しいとして大野治長によって退けられたという。

その後、今度は別の軍議で夜討ちを提案した幸村は、自らが夜討ちの大将となって一挙に勝敗を決する旨を言った。しかし、これに後藤又兵衛が幸村の討ち死にによる士気低下を懸念して、自分が大将として出陣すると言いだした。すると、幸村も自分が出陣するとさらに言い返し、たがいに争論してこの案の決着はつかなかったという。

伊達政宗との交戦

大阪夏の陣における道明寺の戦いでは、豊臣方の撤退戦となって追撃を仕掛ける伊達政宗の軍を相手に殿を務めた幸村では、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。

この言葉は後世にまで語り継がれることになった。

家康が切腹覚悟?

最終決戦となった天王寺の戦いで幸村が家康本隊に討死覚悟の突撃を敢行した際、その凄まじさに家康が切腹を覚悟したほどだったという。

幸村の最期

幸村が徳川兵の西尾仁左衛門に討ち取られた最期には諸説ある。

  • 通説:西尾と出くわしたとき、幸村は戦続きで負傷してくたびれ果てていて、まともに戦うこともできずに討ち死にしたという(『細川家記』)
  • 新説:両者は馬に乗っていたところで出くわし、ともに下馬して槍を合わせて戦ったが、西尾は相手が幸村だと知らず、ついに兜をかぶった幸村の首級を掻きとり、その首級を陣屋に持ち帰ったという(『松尾文庫』内の記述)。

幸村の死後

幸村の首実検のとき

幸村の死後、その武勇は徳川方からも称賛された。このため、豊臣滅亡後の幸村の首実検では多くの武将が見物に訪れたという。
また、家康は「左衛門(=幸村)にあやかれよ」と言い、幸村の武勇にあやかりたいとして彼の頭髪を抜いて持ち帰る者が絶えなかったともいう(『名将言行録』『真武内伝追加』)

幸村が生前に歯が欠けていたことを知っていた家康は、幸村本人であることを確認するため、西尾仁左衛門に歯が欠けているか確認させると、確かに歯が欠けていたという(『落穂集』)。

また、家康は大阪の陣で2度も幸村と会った真田信尹を呼び、本人かどうかを確認させた。しかし、信尹は見分けがつかずに困惑した。家康が詰問すると、信尹は「幸村と会ったときは夜中であり、幸村は用心していて遠くから話をしただけだった」と弁明したという(『慶長見聞書』など)。

"幸村" という名

文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から "幸村" の名についての問合せを受けた松代・真田家氏は「"信繁" と把握している。"幸村"という名は彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答しているといわれている。また、後の物語などで語られるうちに"幸村" の名が定着したとも考えられており、諸説ある。


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