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秀次の切腹後、娘が幸村の側室に?

豊臣秀次は秀吉の甥であり、秀吉の後継ぎとして秀吉に養子入りして関白にまでなった男である。

そんな男が1595年(文禄5年)に突如切腹し、いわゆる”秀次事件”でこの世を去った。そして事件後には幸村が秀次の娘(隆清院)を側室に迎えたという。

秀次切腹事件はなぜ起きたのであろうか?
大まかではあるが、事件までの流れを追ってみる。

秀次事件の経緯

秀次が豊臣政権の後継ぎに

秀次の豊臣政権下での家臣内での序列は1588年(天正16年)の時点で既に徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(権大納言)についで4番目という高い位置にあった。 それは秀吉が聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎えたときの忠誠を誓う署判の序列で4番目であったからである。

さらに秀次に転機が訪れる。

秀吉が天下統一を果たした後の1591年(天正19年)秀吉の弟・豊臣秀長と秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去したため、失意の秀吉は秀次を養子として後継者に決めたのである。
このため、同年中には "権大納言→内大臣"と秀次の官位が次々と引き上げられ、急遽、関白就任となった。

ちなみに以後、秀吉は太閤(=引退した関白の呼称)と呼ばれるようになるが、実権は依然として握っていた。

秀次の立場は一転か?

しかし、ここで順風満帆だった秀次の人生が一転する出来事が起こる。。

1593年(文禄2年)、秀次に男児が誕生したが、間もなくして死去。しかも、そのすぐ後には秀吉と茶々との間に男児(のちの豊臣秀頼)が誕生したのだ。

これは戦国時代によくある家督争い勃発のパターンではなかろうか。。

ここで秀頼が誕生したときの史料をみてみよう。

  • 『成実記』:秀吉は秀頼が誕生したことで秀吉は秀次に関白職を譲ったことを後悔したという。
  • 『言経卿記』:秀吉は日本を5つに分け、そのうちの4つを秀次、1つを秀頼に譲ると言ったという。
  • 『駒井日記』:体調をくずした秀次が湯治に出かけて不在中に、秀吉は秀頼と秀次の娘(のちの露月院)の婚約を定め、秀頼と秀次の2人に天下を受け継がせる考えであったという。

秀頼誕生によって秀吉との関係に摩擦が生じ、徐々に悪化していったと思うのだが、『駒井日記』には翌1594年(文禄3年)に秀次が秀吉や北政所と花見に行くなどの記録が残っているから、表面上は問題がなかったということであろうか?

秀次事件が発生、切腹の真相は?

1595年(文禄4年6月末)、秀次とその家臣らが鷹狩りを口実として山中で"はかりごと"を相談しているという噂があったという(『大かうさまくんきのうち』)。
この "はかりごと" の有無については諸説あるが、これを考察していくと非常に長くなるため、ここでは省略する。

この謀反の嫌疑をきっかけに、以下の流れで秀次事件は起きた。

  • 7/8 秀次は聚楽第を追われ、高野山に入る。
  • 7/12 秀次の生活を定めた条目がだされる。
  • 7/15 秀次が突如切腹。

結局のところ、切腹の真相は数多くの説があって定かではないが、歴史学者の矢部健太郎氏は以下の理由により、秀次の自発的な意思との見解を示している。

  • 秀吉からの切腹命令ではないのか?
    →切腹の3日前に秀次の生活を定めた条目がだされているから成り立たない。
  • 背景には石田三成との対立があるとされるが・・
    →事件後、秀次旧臣の若江八人衆は三成の家臣となっているから成り立たない。

ただし、『兼見卿記』によれば、当時の人々はこの事件を秀吉のしわざと考えたようである。

事件後の秀次の妻子や家臣らは?

事件後、秀吉は秀次の首実検をすると、さらに秀次の妻子ら血縁関係のねだやしをはかった。

その様子は余りにも酷かったようである。

秀次の妻子ら30余名が秀次の首を眼前に晒された状態で処刑されたのだ。
ただし、妻子全員が処刑というわけではなく、秀次の両親や秀次側室の池田輝政の妹、そして幸村が側室に迎えたという秀次の娘(隆清院)などは難を逃れている。

幸村はこのときに残された娘(隆清院)を匿って側室に迎えたと伝わるが、丸島和洋氏によれば確実な史料での裏付けはとれていないという。

この他にも秀吉は秀次の痕跡を消すために秀次の居城・近江八幡山城や住居であった聚楽第を破却、また、諸大名間の縁組・誓約(同盟)を全面的に禁止するなどしている。

・・・なんとも秀吉の激しい怒りと血縁関係にある者すら容赦しない残虐性が垣間見えた出来事である。


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