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小松姫と信幸の結婚のギモン

いつ結婚したのか?

幸村の兄・信之は本多忠勝の娘・小松姫(稲姫)を娶っている。しかし、実はその時期も経緯もはっきりしていない。しかし、この結婚に関する記載のある史料はいくつかあるのでそれを整理して見ていくこととする。

まず、経緯については以下の2つの史料がある。

  • 『本多家武功聞書』:家康が昌幸を従わせるためにこの結婚の話を持ちかけたが、昌幸は返事をしなかった。そこで家康は小松姫を自分の養女として嫁がせると持ちかけると昌幸はようやく了承し、小松姫は沼田に向かったと伝わる。
  • 『参考御系伝』『幕府祚胤伝』:秀吉の仲介で1586年(天正14年)に嫁いだとされている。

次に時期を見ていくと3つに分かれるようである。

  • 1583年(天正11年)(『甲陽軍艦』)
  • 1586年(天正14年)(『沼田記』『参考御系伝』『幕府祚胤伝』)
  • 1588年(天正16年)(『沼田日記』)

さらに真田の歴史で真田家と徳川家との関係を時系列でみてみる。

  • 1582-85年(天正10-13年)、真田が徳川に従属していた時期。
  • 1585-86年(天正13-14年)、真田は上杉氏に従属し、徳川と敵対していた時期。
  • 1587年(天正15年)、真田家が豊臣大名となり、家康の与力大名になる。(『家忠日記』)
  • 1589年(天正17年)、信幸が家康の与力になる。(『家忠日記』)

上記のように並べてみると、うっすらと時期も経緯も見えてくる。

まず真田と徳川が敵対している時期、つまり1585-86年(天正13-14年)に結婚はありえない。ではそれ以前の可能性はあるのかというとこれもありえないであろう。
そう考えると真田家が豊臣大名として家康の与力大名となった1587年(天正15年)以降はほぼ間違いなく、徳川家と真田家の結びつきを強めることが目的であることも疑いようがない。

秀吉の仲介説をあてはめると1587年(天正15年)以降、『本多家武功聞書』にある家康養女説をあてはめると、信幸が家康の与力大名となった1589年(天正17年)以降であろう。ただし、いずれにしても定かではない。

家康養女説について

家康養女説は先に記したが、秀忠養女説もあるようである。小松姫はどちらの養女として嫁がれたのかは定かではないが、徳川家の養女となったことは史実らしい。

信幸の正室・清音院殿の存在

実は信幸には小松姫を娶る以前から武田家臣時代からの正室・清音院殿がいるのだ。NHK大河 真田丸を見ている方なら御存じの・・・。そう、長野里見さんが演じているあの注目の人物「おこう」である。

この清音院殿は長篠の戦い(1575年)で討死した昌幸の長兄・真田信綱の娘であり、信幸の従兄弟にあたる。

丸島和洋氏によると、信幸と彼女との結婚の意味は昌幸が真田家当主となるために必要な措置であったという。昌幸は庶流であり、真田の家督を継ぐにはその正当性を主張する必要があったため、嫡流の信綱の娘を嫡男・信幸に嫁がせたというわけだ。
また、信幸が小松姫を娶った後に清音院殿が妻である意味は薄れていたといい、側室になったとみている。

信幸が清音院殿と婚姻したときには元服もしておらず、わずか10歳であったというから驚きだ。戦国期の初婚でみても男性としてはかなり早いようである。

「真田丸」では小松姫が輿入れした後の清音院殿(おこう)は離縁させられるが、侍女として残るという設定になっている。これはおそらく、清音院殿が「家女」(=身分の低い女性)と記録された史料が残されているので、これを元に脚色したのだろう。


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