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真田三代の歴史まとめ。わかりやすい年表形式で解説付き!

真田といえば幸村がダントツの知名度だが、祖父の幸隆や父の昌幸も大した経歴の持ち主なのだ。本稿では真田一族の通史をタイムラインでコンパクトにわかりやすくまとめてみた。
なお、乱世の流れがわかるように、中央政権や真田と関わる諸勢力の動きの中で、大きな出来事も織り交ぜている。

武田家への仕官以前(1513年?-)

真田幸隆、誕生

幸隆は幸村の祖父であり、はじめて真田の姓を名乗った初代当主である。その出自ははっきりしないが、海野棟綱の血脈を受け継いでいる説が有力。棟綱は滋野一族の流れを汲む信濃国小県郡の国衆。

幸隆の肖像画
幸隆の肖像画
永正10年(1513年)?
海野平の戦いで本領を失う

武田・諏訪・村上の連合軍が信濃国佐久・小県両郡へ侵攻。海野棟綱と幸隆は敗戦し、上野国へ逃亡となる。なお翌月、武田家では武田信玄が父を追放して当主となる。

天文10年5月(1541年)

武田家臣期(1544年?-)

幸隆、武田家臣となる

幸隆はかつて故郷を奪った武田家に出仕し、武田信玄に仕えるようになる。出仕の時期は天文13・14・15年と諸説あり、定かではない。

天文13-15年(1544-46年)頃
幸隆三男・昌幸が誕生

幸村の父・真田昌幸が誕生。

真田昌幸の肖像画
真田昌幸の肖像画
天文16年(1547年)
幸隆、砥石城を陥落させる

幸隆が調略によって村上義清の支城・砥石城を難なく攻略。武田軍は砥石城に前年も攻め込んでいたが、その時は撤退戦で大損害を被り、「砥石崩れ」と呼ばれた。

天文20年(1551年)
幸隆、真田の本領を回復

武田軍は村上義清を越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)の元に追いやり、幸隆は恩賞として信玄から本領の信濃小県郡を拝領した。以後、村上氏をはじめ、信玄に所領を奪われた信濃国衆らの旧領回復のため、義の将である上杉謙信が信濃川中島に出陣し、たびたび信玄と交わることになる。

天文22年(1553年)
幸隆・昌幸ら、第四次川中島合戦に従軍

武田信玄と上杉謙信による川中島最大の激闘・第四次川中島合戦が勃発。このとき15歳の昌幸が信玄本隊に属して初陣を飾っている。なお、幸隆は上杉軍の背後を狙う別働隊に属していたとみられる。

永禄4年(1561年)
幸隆、上野・岩櫃城の城主に

第四次川中島以後、信玄が西上野へ本格侵攻をはじめると、幸隆はこれに参加して功を重ねた。そして、この年までに岩櫃城を守備するようになったとみられる。なお、この頃に出家して「真田一徳斎幸隆」と称した。

永禄8年(1565年)
真田幸村が誕生。一方で真田の家督は信綱へ移る

真田昌幸の次男として誕生(1570年誕生説もあり)。
なお、この頃に幸隆が家督と岩櫃城主の地位を嫡男・真田信綱に譲ったとみられる。

幸村の肖像画
幸村の肖像画
永禄10年(1567年)
事実上の織田政権が誕生

織田信長が足利義昭を擁立して上洛、15代将軍義昭を誕生させ、自らは将軍の後見人となる。

永禄11年9-10月(1568年)
「武藤喜兵衛尉昌幸」を名乗る

この頃、昌幸は大井氏の一族・武藤氏の養子となって "武藤喜兵衛尉昌幸"と称した。合戦では北条との戦いなどに出陣し、足軽大将にまで出世。

永禄12-元亀3年(1569-72年)頃
信玄、西上作戦を開始

将軍と信長が不仲になり、将軍は諸大名に呼びかけて信長包囲網が形成。軍事面では武田信玄が中心的な役割を担い、西上作戦によって織田・徳川領を次々と攻略していく。

元亀3年(1572年)
武田信玄、西上作戦の途中に病没
天正元年4月(1573年)
室町幕府が事実上の滅亡

織田信長が敵対する将軍足利義昭を京都から追放。

天正元年7月(1573年)
幸隆、砥石城で病死
天正2年(1574年)
長篠の戦いで真田信綱・昌輝兄弟が討死

武田軍はこの戦いで織田・徳川連合軍に大敗。このとき昌幸の2人の兄である信綱・昌輝兄弟が揃って討死。このため、戦後に三男の昌幸が真田家の家督を継承する。

天正3年(1575年)
昌幸、上野・沼田城を攻略

武田軍は長篠の敗戦など、織田・徳川連合との戦いでは所領を奪われていったが、一方で上野国の攻略は順調に進んでいった。この年、東上野攻めを担っていた昌幸は、猿ヶ京城や名胡桃城などの北条家の諸城を次々と攻略し、沼田城の攻略に成功する。

天正8年(1580年)
武田が滅亡。真田は信長に臣従

織田信長による甲州征伐によって武田氏が滅ぶ。真田父子は直前に岩櫃城へ向かって難を逃れたが、自領を守り抜くために信長への従属を選択し、滝川一益の配下となる。

本能寺の変直前までの武田遺領の情勢
織田家臣による旧武田領の分与
天正10年3月(1582年)
本能寺の変が勃発し、信長が横死
天正10年6月(1582年)

転属期(1582年-)

真田生き残りの戦い、天正壬午の乱が勃発

本能寺の変によって信長が横死。これにより旧武田領は周辺大名による争奪戦の地となる。滝川一益は北条軍に敗れて伊勢国まで逃亡を図り、このとき幸村は人質とされて同行している。 一方で昌幸は主君を次々に替え、最終的に徳川家康に従属して自領の小県郡を守りぬいた。

天正壬午の乱の終結直前の情勢
乱の終結直前の情勢

だが、徳川と北条の和睦で終結した乱の和睦条件には「信濃・甲斐国=徳川、上野国=北条領」とする割譲条件が含まれており、かつて真田が攻め取った岩櫃城・名胡桃城・沼田城などを北条に明け渡すということを意味した。ここに沼田領問題が発生する。 天正10年6-10月(1582年)

賤ヶ岳の戦いに勝利し、秀吉が天下統一事業を継承

信長死後、織田家の覇権を巡って羽柴秀吉柴田勝家が対立。決戦となった賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、秀吉が信長権力を継承した。

天正11年4月(1583年)
上田城築城を開始

昌幸は北の上杉景勝の抑えとして上田城の築城を開始。これは徳川軍の力を借りてのものであったが、皮肉にも沼田領問題をきっかけに、真田はやがて徳川から上杉に転じることになる。

天正11年4月(1583年)
家康による昌幸暗殺計画

沼田領の明渡し要求に応じない昌幸に対し、家康は小県郡の室賀正武に暗殺を命じた。だが、計画が事前に昌幸の耳に入り、昌幸は室賀正武を返り討ちにしている。
なお、この頃、羽柴秀吉 vs 織田信雄・徳川家康連合による小牧・長久手の戦いの最中であり、真田をはじめとする信濃国衆らも合戦に巻き込まれる形で参加していた。

天正11年7月(1584年)
秀吉が関白に。事実上の豊臣政権の誕生
天正13年7月(1585年)
昌幸、家康と手切れ。第一次上田合戦

昌幸は沼田領の問題で家康と不和になり、上杉氏に転じた。このため、徳川軍が真田の居城・上田城を攻撃したが、真田はこれを撃退している。

天正13年閏8月(1585年)

豊臣政権・関ヶ原期(1587年-)

真田、秀吉に臣従して豊臣大名へ

真田家が豊臣氏に臣従。前年には既に上杉も徳川も豊臣に臣従していたが、昌幸は皮肉にも秀吉から家康の与力大名を命じられる。
なお、この前後に幸村が秀吉の人質として越後から大坂へ移っている。

天正15年(1587年)
沼田裁定と名胡桃城奪取事件

沼田領問題に天下統一目前の秀吉が介入。その結果、沼田城を含む3分の2を北条氏に、名胡桃城を含む3分の1を真田氏に与えるという裁定となった。
だが、まもなくして沼田城代となった北条家臣の猪俣邦憲が突如、真田方の名胡桃城を襲撃する事件が勃発。昌幸はこの一件を秀吉に強く訴えている。

天正17年(1589年)
幸村も初陣か?豊臣政権による小田原征伐

名胡桃城の襲撃は、秀吉が出した惣無事令(=諸大名間の私闘を禁じた法令)に違反するとして、秀吉は大軍勢で北条氏の討伐を実施。これによって北条氏は滅亡し、秀吉は天下統一をほぼ成し得た。このとき真田父子も従軍しており、通説では幸村が初陣を果たしたという。

天正18年(1590年)
文禄の役

文禄の役で肥前国名護屋城に参陣。このとき真田父子は渡海せず、秀吉の隠居城・伏見城の普請に携わったとみられる。
なお、この頃に幸村は秀吉の馬廻衆として直臣扱いとなる。

文禄元-2年(1592-93年)
豊臣姓を下賜

信幸・幸村の両名は豊臣姓を下賜され、信幸は「従五位下・伊豆守、幸村は「従五位下・左衛門佐に叙任される。
なお、幸村はこの頃に豊臣政権の有力奉行・大谷吉継の娘を娶ったとされる。

文禄3年(1594年)

関ヶ原合戦の直前に石田三成から誘いを受け、真田父子は議論の結果、袂を分かつ。

慶長5年7月(1600年)

関ヶ原の決戦前、昌幸と幸村の謀反を知った徳川秀忠隊は上田城へ向かい、再び同城で徳川との激突となる。この戦で昌幸と幸村の両者は、敵軍を翻弄して足止めに成功し、秀忠はのちの関ヶ原合戦に間に合わず、家康から叱責されたという。
しかし、関ヶ原での決戦はたった1日で勝負がついたため、昌幸と幸村は最終的に降伏。2人は結果的に死罪は免れたものの、九度山へ追放されることになった。

慶長5年9月(1600年)

九度山蟄居期(1600年-)

家康が将軍に就任、江戸幕府の世に。
慶長8年(1603年)
真田昌幸、死去

昌幸が死去。死の直前には大阪の陣を予言し、幸村に対徳川戦の秘策を伝授したという。

慶長16年(1611年)
幸村が出家、"好白" と名乗る。
慶長17年(1612年)
幸村、九度山を脱出

豊臣秀頼の招きで九度山を脱出し、豊臣方の将として大阪入城を果たす。

慶長19年(1614年)

大阪の陣(1614-15年)

大阪冬の陣

真田丸を構築して徳川勢を圧倒、しかし、講和後に真田丸は撤廃となる。

慶長19年(1614年)
大阪夏の陣

最期は家康本陣に突撃してあと一歩のところまで追い詰めるも、討ち死に。幸村の活躍は後世に語り継がれていった。

慶長19年(1614年)


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