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<大阪の陣>徳川方の将まとめ

徳川の譜代大名

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松平忠直(まつだいら ただなお)

家康の次男・結城秀康の嫡子。

慶長12年(1607年)、父・秀康の死後にわずか13歳で家督を相続。

初陣となった冬の陣では真田丸から見て右前方に布陣。真田丸の攻防戦で井伊直孝隊と功を競う形で真田丸へ突撃したが、待ち構えていた豊臣方の一斉射撃を受けて多くの死者を出す羽目となった。

夏の陣でもはじめ、味方の苦戦中に傍観したことで家康から叱責されるなど精彩を欠いていた。しかし、天王寺の戦いでは幸村を討ち取るなど、徳川方で最大の首級を挙げる活躍をし、大阪城一番乗りも果たしている。

幸村を討ち取ったのは家臣で鉄砲組に属した"西尾宗次"という者。

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井伊直孝(いい なおたか)

徳川譜代重臣・井伊直政の子。

慶長7年(1602年)の父・直政の死後、徳川秀忠の側近として仕える。

冬の陣では井伊の赤備えの部隊で臨み、松平忠直隊の隣に布陣。真田丸の攻防戦で松平忠直隊とともに真田丸へ突撃したが、こちらも多くの死傷者をだしている。

夏の陣では河内方面の先鋒として出陣し、若江の戦いで木村重成を討ち取っている。その後、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・秀頼母子を包囲して銃撃し、自害に追い込むという大功を挙げた。

木村重成を討ち取ったのは家臣の"安藤重勝"という者。一説に庵原朝昌という者が討ち取ったが、その功を重勝に譲ったともいう。

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本多忠政(ほんだ ただまさ)

家康重臣・本多忠勝の嫡男。

慶長14年(1609年)に父・忠勝の隠居にともない、家督を継承して桑名藩第2代藩主となる。

冬の陣では先鋒として大坂城の北側の天神橋方面に布陣。休戦和睦の際、松平忠明らとともに大阪城の堀の埋め立て奉行を担当している。
夏の陣では京都御所の警備を勤め、その後の道明寺の戦いで後藤又兵衛隊と激戦を繰り広げた。 続く天王寺の戦いでは毛利勝永隊と戦っている。

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本多忠朝(ほんだ ただとも)

家康重臣・本多忠勝の次男。

冬の陣では大阪城東側に布陣。戦いがはじまると飲酒していたことで敵の猛攻に遭って敗退する不覚をとったといい、これが原因で家康から叱責を受けた。

夏の陣では天王寺・岡山の戦いで先鋒の大将を務め、毛利勝永軍に対して果敢にも正面から突撃したものの、討ち死にを遂げた。

外様大名たち

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前田利常(まえだ としつね)

加賀藩の祖・前田利家の庶子(四男)

長兄・前田利長隠居後、前田家を継いで加賀藩2代目藩主となる。

冬の陣では徳川軍では最大の3万の軍勢を率い、真田丸の前に布陣し、井伊・松平軍と同様に我先にと真田丸へ突撃した結果、多数の死傷者を出してしまった。
しかし、夏の陣では大野治房の軍勢を撃破して大阪城内へ攻め込むと、松平忠直に次いで3200の首級をあげるという大功をあげている。

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蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)

秀吉の腹心・蜂須賀小六の孫

関ヶ原では家康に味方した功により、戦後は所領を安堵され、病気を理由に参戦しなかった父・家政から家督を継承して蜂須賀家の当主となった。

冬の陣では緒戦で木津川口の砦、博労淵砦を難なく陥落させる軍功をあげた。これら戦功は砦を守備する豊臣方の指揮官が不在だった点も見逃せない。(木津川口は明石全登、博労淵は薄田兼相が指揮官。)
夏の陣では参陣途中、和泉国で一揆を未然に防ぐ役割を担ったために参戦はしていない。また、大阪城が陥落した後、逃亡した長宗我部盛親を捕えている。

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伊達政宗(だてまさむね)

奥羽の覇者・独眼竜

政宗は秀吉死後、五郎八姫(いろはひめ)を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせ、徳川家と姻戚関係となった。関ヶ原の戦いでは家康に味方して上杉景勝と戦い、戦後に加増されている。

冬の陣では嫡男・秀宗とともに出陣し、家康本陣の近く・大阪城の南に位置する大和口方面軍として布陣した。
夏の陣では道明寺の戦いに参戦すると、先に到着していた豊臣方の後藤又兵衛隊と衝突し、銃撃の末に又兵衛を討ち取る功をあげた。なお、遅れて到着した真田幸村らとも交戦している。
翌日の天王寺の戦いにも参加し、トータルで首級500余を挙げたという。

伊達隊は一説に道明寺の戦い、または、天王寺の戦いで味方の神保相茂隊数百人を射殺した(味方討ち)というが、実際のところは諸説入り乱れており、真相は定かではない。

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藤堂高虎(とうどう たかとら)

何度も主君を変えた三大築城名人の1人

秀吉の死後、元々親交のあった家康に接近し、関ヶ原では東軍に味方して決戦で大谷吉継隊と戦うなど功をあげた。戦後は伊予国宇和島8万石から今治を加増され、合計20万石となった。また、慶長13年(1608年)には伊賀国・伊勢国へ計22万石に加増移封されており、これは豊臣方との決戦に備えてのものであったという。

冬の陣では大阪城の南に布陣した。
夏の陣では井伊直孝隊とともに河内方面の先鋒として出陣。 八尾の戦いで長宗我部盛親隊と戦い、盛親の策にかかって苦戦に陥ったが、若江の戦いで木村重成を討った井伊直孝隊の救援によって助けられた。なお、盛親は敗走して大阪城へ戻っている。
翌日の天王寺の戦いでは前日の戦いでの被害が大きかったことから先鋒を辞退し、岡山口の二番手としての布陣を余儀なくされた。

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佐竹義宣(さたけ よしのぶ)

常陸国の戦国大名・佐竹義重の長男。

石田三成とは懇意の間柄であり、関ヶ原では西軍に味方しようと上杉景勝と密約を交わしたというが、一方で徳川秀忠へ援軍を出すなど、佐竹氏の態度ははっきりしていない。戦後しばらく経ってから水戸54万石→出羽20万石へ減転封となっている。

冬の陣では今福の戦いで今福砦を一旦は占領するも、豊臣方の木村重成・後藤又兵衛らの救援に遭い、劣勢となって多数の死傷者を出した。しかし、上杉景勝による鉄砲の援護射撃で窮地を脱し、結果的に今福砦を占拠することに成功した。

夏の陣では出陣の命を受けて出羽から大阪へ向かっていたが、その前に大阪城が陥落となって参戦できなかった。

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上杉景勝(うえすぎ かげかつ)

元々は豊臣五大老の一人という大大名

関ヶ原合戦では東軍の家康と敵対して「東の関ヶ原」といわれた慶長出羽合戦で伊達政宗らと戦った。このため、戦後は会津120万石→出羽米沢30万石へ減封という憂き目にあっている。

冬の陣では先鋒として大阪城の東・鴫野へ出陣し、鴫野の戦いで鴫野砦を陥落。さらに鴫野砦のすぐ北で行なわれていた今福の戦いで苦戦を強いられていた味方の佐竹義宣隊を鉄砲射撃で救援し、今福砦も陥落させるという戦功をあげている。
夏の陣では京都の守備にまわり、豊臣方と一戦も交えなかった。


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