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束の間の和睦(1615年)

国元に手紙を送る幸村

豊臣と徳川の和睦成立後、大阪城の堀埋め立てが進む中、慶長20年(1615年)1月3日に家康は京都二条城を出発して駿府へ向かった。

秀忠は引き続き岡山に在陣して堀の埋め立てを指揮していたが、1月19日には伏見城へ帰陣。
そして、1月22~23日にはすべての堀埋め立て工事が完了し、豊臣と徳川双方に束の間の休息が訪れるのであった。

一方の幸村は和睦期間に入り、以下のように親族にいくつかの手紙を送っている。

  • 1月24日:姉・村松殿に宛てた手紙
  • 2月8日:姉の夫・小山田茂誠に宛てた手紙(返書)
  • 2月10日:すへの夫・石合道定に宛てた手紙(返書)
  • 3月10日:小山田茂誠・之知父子に宛てた手紙

上記の手紙の内の一部を紹介する。

幸村から姉への手紙

幸村の姉・村松殿の子である小山田之知が信州上田への用事で命じた使者を幸村の元へわざわざ立ち寄らせた。このとき、幸村が知人に送りたい手紙があればついでに持ち帰る旨を使者に伝えさせた。
この手紙はこれを伝え聞いた幸村が急遽、姉宛てに手紙を綴ったものである。

その内容はおおむね以下のとおりである。

  1. 思わぬことで大阪に来ることになり、(姉は)腹正しく思っているのではと推察している。

  2. しかし、無事に事は済み、自分も死なずにすんだ。(姉に)会って話をしたい。

  3. 明日はどうなるかわからないが、今は何事もない。

  4. 姉の夫・小山田茂誠に何度も会ったが、自分が色々忙しく、ゆっくり話せてない。

幸村から小山田茂誠への手紙

この手紙は小山田茂誠から幸村のもとに贈り物が届けられた際、あわせて大阪での近況も問われたとき、幸村が返書したものである。

その内容はおおむね以下のとおりである。

  1. 忙しいのに気遣ってもらって心苦しい。

  2. 親族でもあるから、今後も自分のことを気遣い、援助しようと考えているのだろう。

  3. (しかし)今後はそちらから人をよこしたりすることは無用。何かあれば自分から遠慮なく申し入れる。

  4. 自分は年をとり、病気がちで、歯も抜け落ちて、髭の多くが白くなり、身体はやせ衰えた。

  5. もはやお目にかかることもない。

不穏な動きがはじまる

冬の陣で戦った大阪城の牢人衆らは、堀の埋め立てによって防御機能を失った後の大阪城に居続けており、豊臣家に扶持を取り上げられても大阪を去ろうとしなかった。
それどころか全国から豊臣に奉公を望む者がやってきて、太閤時代よりも人数が多いと大阪商人たちが話題にするほどであったという。

牢人衆らは召し抱えてくれる大名がなかったといい(『慶長見聞書』)、ここに再び牢人問題が起こる。

板倉勝重が家康に報告

3月12日、京都で大阪方が放火を企てているとのうわさが流れ、人々を不安に陥れていた。

京都所司代の板倉勝重は以前から配下の者を大阪に潜伏させ、内偵を進めていた。
そして、同日と翌13日と立て続けに家康側近の後藤光次に書状を送り、大阪方の不穏な動きを報告している(『後藤庄三郎古文書』)。

その内容は以下のようなものであった。

  1. 米や材木が以前よりも多数集められて船場に積み上げられている。

  2. 米は大阪商人が兵庫に買い付けに行っていた。

  3. 諸国からの米や材木を積んだ船は値段次第で兵庫尼崎ではなく、大阪の伝法に乗り入れている。

  4. 大阪で立て札をだして仕官を禁じていたが、新参の牢人らを手厚く世話していた。

  5. 大野治房が配下の牢人衆らに扶持(=武士に米で与える給与)を与え、大阪城の金蔵を開けて金銀米を運び出して分配した。

こうした報を受けて家康は3月14日、九州や四国など西国大名に対して年貢米を積んだ船の大阪着船と払米(=年貢米を民間に売却すること。)を禁止し、大阪に流れる兵糧米や物資の流通を差し止めようとしている。

牢人問題で豊臣家は内部分裂

一方、牢人問題がきっかけで豊臣内部は内部分裂の様相を呈してきた。

大野治長は弟・治房が配下の牢人衆に勝手に扶持を与えたことに憤慨していたが、治房配下の牢人らは徳川方との再戦を望んでおり、その談合に明け暮れていたという。
また、牢人らは堀の掘り返し作業を開始、さらに治長自身も密かに塀杭の支度を行なっていたといい、家康帰陣の2ヶ月後ほどで二重の塀を構築していたという。

こうした牢人問題や今後の方針を巡り、大野兄弟は仲違いしていくこととなる。

一方で豊臣秀頼はこれまで以上に増えた牢人衆をどうするかという難題を抱え、頭を悩ませていた。

牢人衆を無碍にできない秀頼は彼らが暴走しないように金銀を支給するなどして一時的に凌いでいたが、自領が荒廃していて年貢収納が見込めない状況で困窮したため、家康に救いの手を求めたのだ。

3月15日に秀頼が派遣していた常高院・大蔵局、青木一重(七手組)らが家康と対面するが、近隣の1カ国を拝領したいという秀頼の申し入れは不調に終わっている。

家康は大阪の不穏な動きに対し、秀頼に大阪から大和国郡山に移るように要求した。

これに七手組(=豊臣秀吉が創設した旗本衆)はやむを得ないとして賛同していた。しかし、反発する牢人らは「秀頼が大阪を退去したら自分らは餓死してしまう。それなら大阪城に籠もって家康に一矢報いてから切腹する」として一致団結し、秀頼はこれに引きずられる形で再戦に至ったという(『元寛日記』)。

秀頼は結局、牢人らを退去させるという大きな問題を解決できなかったのである。

再戦へと向かう両者

3月16日、京都所司代・板倉勝重が京都から駿府にきて京都・大阪の状況を報告した(『駿府記』)。

やがて幕府は、豊臣方が再戦準備を進めているとの認識に傾いていき、3月19日には大野治長が家康側近の後藤光次に弁明している。

幕府が出陣準備へ

3月28日、京都で幕府が出陣準備を始めたと風説が流れたという(『義演准后日記』)。実際に幕府は同日に甲斐国の武川衆に出陣準備を命じている。

そして4月1日、幕府は幾内の諸大名らに出陣命令をだした。ただ、この時点においても家康は豊臣家を滅ぼすのではなく、あくまでも軍時圧力で豊臣方の大阪城退去と牢人衆の解散という狙いであり、戦そのものは避けたかったものと考えられている。

4月4日~10日、にかけて家康は駿府から名古屋へ移動、その間の4月9日、には大野治長が城内で襲撃される未遂事件が発生している。このとき治長は負傷したが、犯人はわかっていない。
おそらく豊臣内部の開戦派の誰かと思われる。

4月13日、かねてから大阪城を退去して京か堺で隠居したい旨を家康に伝えて許可をもらっていた織田有楽斎が名古屋で家康と対面。大阪の内情を語り、豊臣家中の内部対立が露呈することとなる。

城内は以下の三派に分かれていたという(『駿府記』)

  1. 七手組、大野治長、後藤又兵衛
  2. 木村重成、渡辺糺、真田幸村、明石全登
  3. 大野治房、長宗我部盛親、毛利勝永、仙石秀範

こうしてみると豊臣方はまさに譜代の将も牢人衆もバラバラという状態であった。

上記1のグループは大阪城を退去するのもやむを得ないと考える穏健派。上記2のグループも1と同様に大阪退去やむなしと考えているが、牢人問題の解決は優先したい派。そして問題の上記3のグループは徳川との再戦を望む過激派であった。

同日、再戦を覚悟した豊臣方は軍議に入ったといい(『武徳編年集成』など)、もう再戦は避けられないところまで来ていたのであった。


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