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大阪夏の陣/大阪の地で再び!(1615年)

豊臣の牢人衆らが再戦の準備を行なおうとする不穏な動きに対し、徳川家康は豊臣方に大阪城からの退去を求めていたが、彼らは退去派と開戦派に分かれて内部分裂状態となっており、結局は家康の要求に応じずにいた。

交渉は決裂。再戦へ!

そして慶長20年(1615)4月16日、家康は去る12日に大阪が牢人衆に金銀を分配し、武具等の準備が始まってあわただしくなったとの報を聞き(『駿府記』)激怒するが、これを知った豊臣方は大阪で武器や馬の売買禁止を命じ、違反者は成敗してもよいという通達をだしたという(『北川遺書記』)。

4月19日、家康は負傷した大野治長の見舞いとして治長実弟・大野治純を派遣して、襲撃した者を報告するように命じており、犯人が分かり次第こちらで処罰する旨を伝えている(『駿府記』)。
しかし、一方で『大日本史料』では徳川方と豊臣方の交渉はこの日に決裂となり、幕府が諸大名らに出陣命令を出したという。

4月22日には家康と秀忠が二条城で会談したという『駿府記』。これは夏の陣に向けての軍議とみられている。

豊臣方が戦端ひらく「郡山城の戦い」

そして4月26日、大野治房隊が出陣し、暗峠を越えて大和国へ侵入し、郡山城へ迫った。城を守備していた徳川方の筒井定慶は「敵は大軍」との報告を受けて逃亡した。これは物見が誤認したことによるものであったが、豊臣方は翌27日に難なく大和郡山城を陥落させた。(郡山城の戦い)。

その後は奈良に向かい、28日には法隆寺付近に放火するも、徳川方の接近を知って郡山城も放棄して大阪城へ撤退した。なお、同日に弟の大野治胤は兄・治房の命を受けて徳川方の兵站基地であった堺を焼き打ちさせている。そして、治胤隊の一部はその先の岸和田城の小出吉英を攻めたという。

こうして大阪夏の陣は豊臣方の先制攻撃ではじまったのである。

※夏の陣の各地での合戦地点とその時期

  • 1.4月27日:郡山城の戦い
  • 2.4月29日:樫井の戦い
  • 3.5月6日:道明寺の戦い
  • 4.同日:八尾・若江の戦い
  • 5.5月7日:天王寺・岡山の戦い
  • A.大阪城
  • B.岸和田城


「樫井の戦い」塙団右衛門、死す!

豊臣方は紀伊国・和歌山城主の浅野長晟への攻撃を決定した。
浅野氏は豊臣恩顧の大名であり、豊臣方は味方になることを期待して使者を2度にもわたって送っていたが、浅野長晟はこれを拒否したのである。

豊臣方は紀伊や和泉など各地の侍らに一揆を呼びかけ、浅野長晟を挟撃しようとの作戦をたてており、大野治房をはじめ、大野治胤、塙団右衛門らが4月28日に大阪城を出陣した。

一方、浅野長晟は幕府から出陣の命を受けていたが、国内で一揆の兆候があるとして見合わせていた。しかし、催促を受けて同日に5000程の兵で和歌山城を出陣した。

浅野隊は和泉国佐野で豊臣方の先鋒隊を発見すると、亀田高綱の進言で迎撃に有利な樫井まで退却することにした。
なお、この地では浅野の先鋒隊が一揆を指揮するために出向いていた大野治長の家臣と遭遇し、これを捕えて殺害した。

これに対して豊臣方の先鋒・塙塙団右衛門、岡部則綱らは我先にと功を焦って競い合い、後続の隊を待たずに退却した浅野隊の追撃をしてしまうのである。

こうした中で4月29日、塙団右衛門、岡部則綱と浅野隊の殿となった亀田高綱との戦いが始まった。

亀田は巧みな遅滞戦術で樫井まで誘い込むと、味方の救援を得て塙・岡部隊と交戦。激戦の末、岡部は敗走、塙は討ち取られたのであった。

後続の大野治房は一揆勢の蜂起の合図を待っていたが、先鋒隊の敗戦の報を聞いて驚くと、急いで樫井へ向かった。しかし、既に浅野隊は撤退していたため、やむをえず大坂城に引き返したのであった。

豊臣方の作戦は?

4月30日、大坂城内で軍議が開かれた。

軍議では大阪冬の陣の際の徳川方の進路を参考に、以下のように徳川方が軍を二手に分けて河内平野へ進出、そして大阪城の南に位置する道明寺で合流して北上して大阪城へ進軍してくると予想した。

  • 家康本陣:二条城(山城国)→大和国→生駒山系を抜けて河内国へ→国分(河内国)
  • 秀忠の軍:伏見城(山城国)→東高野街道を南下(河内国)

※二条城・伏見城から道明寺までの重要地点マップ

  • 1.二条城
  • 2.伏見城
  • 3.郡山城
  • 4.生駒山
  • 5.東高野街道
  • A.大阪城
  • B.八尾・若江
  • C.道明寺

そこで後藤又兵衛が以下のように主張し、これが受け入れられて作戦が実行されることとなった。

  1. 河内平野へ徳川の大軍が集結、展開してしまったら勝利することは難しい
  2. 山岳地帯を利用して少数で大軍を迎撃するのに効果的な場所を制圧し、進軍を防ぐ必要がある
  3. 機先を制すれば、敵は大和郡山まで退却する
  4. その後、再び敵が動くまでの間に臨機応変に戦略を立てる

しかし、豊臣方の想定と違って家康本陣と秀忠ら約13万の軍勢は河内国から進軍、大和方面からは伊達政宗や本多忠政ら3万5千余の軍勢が道明寺に向かって進軍していた。

こうして豊臣方は大阪城の南に位置する道明寺方面に後藤又兵衛・薄田兼相・明石全登・真田幸村・毛利勝永・渡辺糺ら合計1万8千ほどの軍勢が、大阪城の東の湿地帯である若江・八尾方面には木村重成・長宗我部盛親らの軍勢が向かい、それぞれの地において徳川との激闘を迎えることになる。

なお、この軍議にまつわる逸話があるので以下に紹介しよう。

『常山紀談』『名将言行録』より

夏の陣での徳川との決戦を前にした軍議では、第一の席に長宗我部盛親、第二の席に真田幸村、その次に毛利勝永が列座した。

--大阪城--

豊臣秀頼

こたびの決戦をいかにすればよいのか、皆の考えが聞きたい。

豊臣秀頼アイコン
真田幸村アイコン

幸村

まずは長宗我部殿から申されませ。

長宗我部盛親

・・いや、真田殿でなくてはこのような場で意見を言いだせる者がいるとも思えぬ。まずは真田殿が。

長宗我部盛親アイコン
真田幸村アイコン

幸村

・・・ならば申し上げます。

昨年は我が大阪城は堅固であり、兵糧も蓄えられておりました。日数が経てば必ずや西国の者に大阪に心を寄せる者、敵方で心変わりをする者も現れるだろうと思っていたところに、意外にも和平となって大阪城の堀は埋立てられてしまいました。それ故、城を守る方法はないかと存じます。

真田幸村アイコン

幸村

ただ城外に討って出るのならば、秀頼公がご出馬され、伏見城を攻め落としてすぐに上洛、洛外を焼き払い、宇治・瀬田の橋を引き落とし、所々の要害を守備し、まずは洛中の政治を御取り計らいください。

その後、勢いによって再び軍議を行うべきかと。もしご運が尽きたとしても、ご上洛なさって一度でも"天下の主"と号して洛中の政務を執り行なわれましたならば、後代の名聞もこれ以上のものはありますまい。

長宗我部盛親

・・・なるほど。確かにそのとおりだ。

長宗我部盛親アイコン

幸村の意見に長宗我部盛親をはじめとして皆が同意したが、大野治長だけが "秀頼公の出馬は軽々しい行動である" として納得しない様子を見せたため、幸村の案は議決せずに軍議は終了してしまった。


しばらくして人質に出されていた大野治長の母が返された頃、徳川方の軍勢が伏見まできたとの噂が届くと、これを受けて再び豊臣方の軍議が開かれることとなった。

最初、またも長宗我部に発言を譲られた幸村が進み出て言った。

真田幸村アイコン

幸村

家康の戦はいつも勢いに任せ、攻め込んでくると聞いておりますが、まことにその通りだと存じます。

そのワケは、伏見に着陣しながら軍兵の疲れを休めることもなく、そのまま茶臼山まで押し寄せようというのは、あまりにも急ぎすぎているかと。

真田幸村アイコン

幸村

伏見から大和路へ押し出してくるには、その行程は十三里(=約52キロ)ですから、敵はますます疲れることでしょう。
そこから考えてみますと、明日の夜には徳川はどんなことがあっても冑を枕にしてひと眠りするかと。これこそ夜討ちの絶好の機会にあたっていると存じます。拙者がむかっていき、一挙に勝敗を決しましょう。

他の牢人たち

他の牢人A:さすがは真田殿!

他の牢人B:それなら一気に徳川をたたきつぶせそうじゃ~

家来アイコン

豊臣秀頼

ほかに意見のあるものはおるか?

豊臣秀頼アイコン

こうした中、今度は後藤又兵衛が進み出て言った。

後藤又兵衛

真田殿の考えはいかにもよろしいかと存じます。

しかしながら、真田殿を夜討ちの大将とするのは、万に一つでも討ち死になさるようなとき、諸人は落胆するでありましょう。そもそもこのたび、諸国の牢人どもがこの大阪に馳せ参じたのは、ひとえに真田殿を目当てにやってきているのです。

家来アイコン
真田幸村アイコン

幸村

ええっ!?

後藤又兵衛

そのようなわけで夜討ちならこの又兵衛が引き受けましょう。

家来アイコン
真田幸村アイコン

幸村

ともかくここは拙者が参ります。

後藤又兵衛

あとの戦が大事でござる。是非とも真田殿は残り留まられよ!

後藤又兵衛アイコン

このように争論となり、結局は決着がつかずに夜討ちは中止となってしまったのである。


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