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大阪夏の陣/天王寺での最終決戦(1615年)

慶長20年(1615)5月6日、豊臣軍は徳川の大軍の集結を防ぐべく、道明寺・八尾・若江で迎撃したものの、各々敗れて退却を余儀なくされた。

この時点で豊臣方の有力武将としては塙団右衛門、後藤又兵衛、木村重成、薄田兼相らが既に討ち死に。また、長宗我部盛親は戦場での孤立を恐れて撤退したものの、未だ大阪に戻らずに行方知れずとなっていた。

一方で幸村は茶臼山に引き上げ、大野治房らも茶臼山に布陣した。徳川が敗軍を追撃して大阪城に侵攻する恐れがあり、迎撃の準備をしていた。

豊臣方、最後の軍議

こうした状況の中、秀頼から徳川との最終決戦に向けて作戦をたてているとの報が入り、豊臣軍は全軍が一旦大阪城へ引き上げることとなったようである。

『大阪御陣覚書』によれば、豊臣方の作戦とは以下のような手順のものであった。

  1. 真田・毛利らの隊が天王寺近辺に布陣。
  2. 別働隊と明石全登隊が大阪城の西の船場に布陣。
  3. 徳川軍を天王寺に引きよせて決戦を迎える。
  4. その間、明石隊が寺町筋の勝鬘院の下に移動して、茶臼山の南に回り込み、阿倍野へ押しあがり、徳川軍の背後をつく。
  5. 引きつけた徳川軍を前後から挟撃する。

この作戦は幸村や毛利勝永らだけでなく、大野兄弟ら豊臣首脳も合意したものであったという。

一方、岡山口では大野治房隊が布陣することとなった。ただ、先の戦いで塙団右衛門を見捨てた岡部則綱を許せないとして内輪もめが発生したようであり、岡部の追放を迫った者らは隊を離れて、真田・毛利隊のほうへ移動したという。

こうして豊臣方は天王寺口と岡山口に総力を結集させて布陣し、徳川との最終決戦に臨むことにしたのである。

※出所:by Jmho(2006/10/31)-大坂夏の陣:天王寺・岡山合戦布陣図 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

最終決戦の幕開け

翌5月7日、天王寺と岡山に布陣した豊臣方の兵は7、8万程であったという。

豊臣軍は徳川が先に動くのをねらっていたが、家康もまた、全軍にむやみに開戦しないよう命じていたこともあり、 しばらくの間、双方は対陣してにらみ合いを続けていた。

家康はこの戦いで若年の息子・義直と頼宣に実戦をみせて今後の教訓にさせようとしていたといい、また、使者を大阪に派遣して、秀頼に降伏を促し、他国への国替を要求したという。

徳川の諸将らはいつまでも開戦しない状況に焦っていたようであり、彼らは豊臣方が日暮れになるのを待っていると考え、すぐにでも開戦することが勝利の近道であると、家康に訴えていたという(『大阪御陣覚書』)

鉄砲の競り合いが始まる

こうした対陣の中、ついに徳川方の仕掛けで戦いは始まった。

最初に仕掛けたのは徳川の松平忠直隊であったといい(『福富覚書』『慶長見聞集』ほか)、本多忠朝も進軍して鉄砲を激しく撃ちかけたが、大阪の反撃で徳川兵の多くが死傷したという(『大日本史料』)。

松平忠直は前日の戦いで家康に叱責されており、功をあげるために必死だったようである。夜が明ける頃には、軍令違反を犯してまで天王寺口に到達していたとみられている。
また、同じく家康に叱責されて思いつめていた本多忠朝も張り出して布陣していたという(『福富覚書』)

一方、茶臼山から徳川方の様子をうかがっていた幸村は、秀頼本隊がまだ出陣していないのに開戦してしまったことに驚き、これを制止しようとしたが、敵の収まらない攻撃に毛利隊も反撃せざるを得ず、やがて両者の距離は近づいて射撃はより激しさを増していったという。

秀頼出陣を促す幸村

こうした中、幸村は息子・大助を呼び出し、大阪城に戻って秀頼公の側で最後まで付き従うように命じた。

これは真田大助が前日の道明寺の戦いで負傷していたのに加え、徳川方への内通を疑われていた幸村自身が、暗に豊臣への人質としてその疑いを晴らすという意図であった。

これに大助は納得せず、父とともに戦って戦死することを再三願ったが、幸村はこれを許さずに言い聞かせたといい、大助はしぶしぶ大阪城へ向かったのであった。

幸村は徳川軍が接近してくる状況の中、秀頼がまだ天王寺口に姿を現さないため、大阪城に寺尾勝右衛門を派遣して出馬を要請。秀頼は出陣準備をしており、近親の今木源右衛門(浅井一政)を返事の使者として派遣してきた。

秀頼の返答は "自分の出馬を合図として合戦を始めるという、かねてからの作戦どおりにせよ。" とのことであり、これを受けて幸村は山を下りて戦闘準備に入ったという。

今木源右衛門の動き

今木は徳川方が接近してきたため、幸村の許可を得て敵前視察を行ない、一旦帰陣したという。

そして、豊臣と徳川とが鬨の声をあげて衝突したのは午の刻(=正午の前後2時間頃)であったといい(『大日本史料』)、そのころに今木も果敢に動きだして敵の首級をあげたが、ちょうどこの頃に真田隊と松平隊の鉄砲競り合いが開始されたとみられ、今木はあたり一面が真っ黒な煙で覆われて周囲が全く見えなくなったという(『浅井一政自記』)
その後、今木は秀頼のことが気がかりで大阪城に戻っていった。

両軍の戦いが徐々に激化

毛利隊は鉄砲競り合いで徳川方との間合いが近づいてくると、頃合いをみて本多忠朝隊に突入した。ここから毛利隊の凄まじい攻撃が展開されていく。

毛利隊の快進撃

まずは毛利隊の右先手でお市の方の次男・浅井井頼の隊が本多忠朝隊と激突、さらに毛利隊の左先手も攻撃に加わって猛攻撃を加えた。本多忠朝は死を覚悟しており、小勢でありながら果敢にも前進してきたが、乱戦の中で討ち死にを果たしたのであった。

本多忠朝隊を撃退した後、浅井井頼隊は続いて松平忠直隊を攻撃した。一方で毛利隊の左先手は、真田信吉・信政兄弟の軍勢に突入してこれを撃破。真田隊では多くの真田家臣らが死傷したという。

これに毛利隊の東に布陣していた大野治長隊と交戦していた小笠原秀政隊は治長隊と戦いつつも、 毛利隊の背後を突こうとしたが、勢いにのる毛利隊の猛攻で崩壊した。小笠原秀政はこのとき重傷を負ってまもなく死去。

一方、真田隊も松平軍との鉄砲競り合いを得て、毛利と激戦を展開していた小笠原秀政隊の左に出て、越前軍に突撃を開始した。

徳川方の味方崩れ

徳川軍は豊臣を大きく上回る15万程の軍勢であり、しかも今回の戦いは大阪城での籠城戦ではなく、野戦であったことから 圧倒的優位・・・のはずであった。

しかし、あまりの大軍であるがゆえ、徳川方の各隊に家康や秀忠の命令が必ず届くといった状況ではなく、徳川の諸大名らは思い思いに行動し、全体の統制がとれていなかった。
また、元々豊臣家に縁のある大名らも徳川方に多くいたため、各隊が互いに牽制する動きをとるなど、猜疑心も蔓延していた。

そして、天王寺で真田や毛利隊が激戦を繰り広げる中、豊臣方に絶好の機が訪れた。

徳川方の和歌山城主・浅野長晟が出陣し、天王寺口の西側を通り、大阪城へ向かおうとしていた。浅野長晟は豊臣五奉行の浅野長政の次男であり、大阪の陣の際にも豊臣方から味方になるよう誘われるほど豊臣と縁の深い男である。

これを見た徳川の将らは勘違いし、浅野が裏切ったとの噂が飛び交い、徳川の各隊は動揺して大規模な味方崩れ(=兵の逃亡等で隊が崩れること)を起こしてしまったのだ。

大混乱となった天王寺口。幸村や毛利勝永らはこの最大の好機を見逃すはずもなく、家康本陣への突撃を敢行することになる。


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