長宗我部元親ゆかりの地おすすめ16選

 長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。よほど歴史が好きな人でないと、誰それ?となってしまうのではないでしょうか?

 織田信長や豊臣秀吉など誰もが知るメジャーな戦国武将ではないので何をした人なのか知らない人が多いかもしれません。ちょっと知っている人で、「四国を統一した人」、「土佐の出来人(できびと)」くらいは出てくるかもしれません。ゲームから入った歴女さんたちからの人気はけっこう高いようで、「アニキ」などと呼ばれ慕われているようです。

 NHK大河ドラマの「龍馬伝」を見た方はピンとくるかもしれないエピソードを紹介しましょう。

 龍馬が幼少期を過ごした土佐(現在の高知県)から第1話が始まるのですが、上士と下士に分かれた身分制度に苦しむ姿が描かれています。同じ武士なのに下士はみすぼらしい衣装をまとい、上士とすれ違う時は道を譲らなければなりません。

 上士に足蹴にされる場面があったり、斬られてしまう下士がいたりと、その身分の違いはもはや同じ武士ではないような印象でした。同じ武士なのにどうしてここまで身分の差があるのだろうと思った人もかなり多くいたようです。

 土佐の上士と下士の違いをざっくりと簡単に説明すると、下士は戦国時代末期に土佐を統治していた長宗我部家の家臣とされています。そして上士は、関ヶ原の戦い(1600)で西軍に属し、改易となった長宗我部家に代わって土佐を統治することになった山内家の家臣とされています。

 負けた長宗我部家の後に、勝った山内家が乗り込んできたという感じでしょうか。これが上士と下士の立場を決めたようです。四国を統一するも、関ヶ原の戦いで西軍についたため、長宗我部家の命運も大きく変わってしまいました。

 一代で四国を統一し、長宗我部王国を築いた長宗我部元親は、関ヶ原の戦いの直前に病気でこの世を去っています。元親が健在で先を見据えて東軍についていたら、もしかしたら江戸や幕末など日本の歴史も大きく違ったかもしれません。

 そんな事を頭の片隅に置きながら、戦国時代を駆け抜けた四国の覇者、長宗我部元親の生涯を史跡と共に紹介してみたいと思います。

 長宗我部元親は織田信長に遅れること5年、1539年に土佐の地に誕生しました。

 長宗我部氏は、鎌倉時代の始め頃に秦能俊(はたよしとし)が信濃から土佐長岡郡、現在の南国市にあたる宗部郡に移り、長宗我部と名乗りだしたと言われていますが定かではありません。この頃から七つ方喰の家紋を旗印として発展し、岡豊(おこう)城を本拠地とします。

岡豊城

 岡豊城の城主であった父・長宗我部家20代目の国親と、美濃の守護代を務めていた斎藤利良の娘である母との間に元親は生まれました。

 幼名は弥三郎と称し、7人兄弟の長兄・嫡男として育てられました。長らく待った待望の跡継ぎでしたが、幼い頃はあまり期待できない人物だとされていました。

 元親は背が高く色白で器量は良いが、必要なこと以外は喋らず人にあっても会釈をしない…。いつも屋敷の奥に引きこもっているので「姫若子」(ひめわこ)と揶揄され嘲笑の的だったそうです。父親も「嫡男がこんな有様では当家も終わりだ」と深く嘆いたと伝わっています。

そんな元親が生まれた岡豊城は、現在の高知県南国市街の北西部に位置する香長平野の北西端にあたる岡豊山にありました。

 戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残っており、高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されています。岡豊城へは、路線バス「領石、田井方面行き」に乗り「歴民館入口」下車して徒歩10分ほどです。

高知県立歴史民俗資料館、元親飛翔の像

 岡豊城址の一角には「高知県立歴史民俗資料館」もあり、長宗我部元親の常設展示や企画展や関連イベントなども開催しています。

 近くに「長宗我部元親 飛翔の像」もあります。「姫若子」と呼ばれていたのが信じられない勇姿ですのでぜひ見て欲しいです。

土佐神社

 そこから少し足を伸ばすと長宗我部元親が再建造営したという「土佐神社」があります。現社殿は八とんぼという特殊な建築様式で神社建築としても注目をあびています。

 開運招福のご利益がある「土佐神社」は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」ロケ他でもありますので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょう。土佐神社へは、土讃線の土佐一宮駅から徒歩で15分ほどです。

若宮八幡宮、元親初陣の像

 元親の初陣は意外と遅く、1560年5月に数え年で23歳になってからでした。父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて、弟の親貞と共に初陣を飾りました。

 元親は「長浜城」の争奪戦において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれています。戦いを前にして、家臣に「槍の使い方を聞く有様」で周囲を大いに不安にしたようですが、いざ合戦が始まると鬼神のような奮闘ぶりだったそうです。

 その際、高知の「若宮八幡宮」の松林に陣を張り、一夜心静かに戦勝を祈願してから初陣に挑んだと言われています。

 鎮守の森公園には「長宗我部元親 初陣の像」があり、勇ましい銅像を見ようと歴女たちの隠れた名スポットとなっているようです。

 長宗我部元親の銅像はどれもかっこいいのが印象的です。飛翔の像も初陣の像も勇ましく凛々しい姿は女性におすすめかもしれません。あまり元親を知らない方は、導入としてまずはこの初陣の像を見に行ってみるというのも面白いかもしれません。

 若宮八幡宮、鎮守の森公園へは南はりまや橋から高知県交通「桂浜」行きのバスに乗り「南海中学校通」で下車して徒歩約5分です。

長浜城跡

 また、近くには「長浜城」もありますので併せて見に行ってみて下さい。

 この長浜での初陣で元親の武名は高まり、長浜戦に続く潮江城の戦いでも戦果を挙げ、戦国武将としての頭角を現していきました。

 突然の息子の活躍を見て父である国親は頼もしく思ったことでしょう。しかし本山軍を打ち払い本拠地に引き上げた国親はそのまま病床につき20日ほどで死去してしまいます。

 57歳での死に際して国親は元親に、父の敵である本山を討つことこそ本望であり本山を討つことが私への供養だと伝えたそうです。

 父の国親が急死すると長宗我部毛の家督は元親が相続し、長宗我部氏はさらに飛躍していくことになります。

朝倉城跡、吉良城跡

 このとき元親は現在の高知市における西南の一部を除いたほとんどを支配下に置くことに成功し、初陣の翌年には宿敵本山方を攻め「朝倉城」と「吉良城」に追い込んでいます。

 土佐の国司で幡多郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名の一条氏と共同して、1562年9月に朝倉城攻めを行いましたが、敗北してしまいます。

 本山氏との戦いを繰り広げた「朝倉城址」へは、とさでん交通の朝倉神社前駅で下車してすぐ。「吉良城址」へは、JR土讃線・朝倉駅からとさでん交通バスに乗り「新川通」バス停で下車して徒歩で約13分ほどです。

本山城跡

 しばらく合戦が長引くと、本山氏を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、1563年1月に「朝倉城」を放棄した本山方は「本山城」に籠もってしまいます。この年に25歳になっていた元親は、美濃斉藤氏の縁者である石谷光政の娘を正妻として迎えています。

 本山城に籠もった本山勢は劣勢を覆そうと長曾我部の岡豊城を攻撃しようと企てますが失敗に終わります。
1564年4月には「本山城」を放棄して瓜生野城に籠もって徹底抗戦しますが本山氏の当主が病死したことで総崩れとなり、1568年の冬に本山氏は長曾我部に降伏しました。

 こうして父が遺言にまで残した宿敵、本山氏を討ち果たすことで父への供養と勢力の拡大を同時に成し遂げることが出来ました。長曾我部の宿敵本山氏の本拠である本山城へは、JR土讃線の大杉駅からバスに乗り、「帰全公園前」で下車して徒歩で約10分ほどです。どれも天守などはなく山城としての遺構のみが確認できます。

安芸城跡

 土佐の中部を完全に平定した元親は、次は共同していた公家大名の一条氏からの自立を目論むようになります。

 毛利に攻められ弱体化していた西側の一条兼定を取り込み、本山と戦っている最中に岡豊へ攻め込んだりしていた東側の安芸国虎を倒す野望を抱きます。

 元親は本山氏との戦いが決着した翌年になると安芸国虎の元に書状を出しました。過去のことは水に流して友好を深めようという内容で、その中に長曾我部の本拠である「岡豊へ来て頂きたい」と策略を仕込んだのです。

 和議を結ぶのであればお互いの国境に出向くのが常であり、本拠にまで来いというのは「降伏しろ」と言っているのと同じなのです。

 案の定この書状を見た安芸国虎は激怒し、長宗我部からの使者を即座に送り返してしまいます。まんまと挑発に乗った国虎は重臣が諫めるのも聞かず、元親 と一戦を 交える覚悟を固めました。

 元親もここぞとばかりに、これを口実にして7千の兵を率いて現在の高知県安芸市に位置する安芸城に進軍しました。それを5千の兵で待ち構える安芸軍と激突します。土佐最大 の戦い「八流の戦い(やながれのたたかい)」の火ぶたはこうして切られたのです。

 海沿いと内陸での激戦が繰り広げられ、兵力で優勢な長宗我部軍の勢いに押される安芸軍は劣勢となり「安芸城」へ撤退します。安芸城を包囲して籠城戦に持ち込んだ長宗我部軍は、城内の兵糧がつきかけたと見るや「井戸に毒を入れた」との噂を流して城内を錯乱させることに成功。万策尽きた安芸国虎は城兵の助命を条件として開城し自害して果てました。元親はこの「安芸城」に弟の香宗我部親泰を入れて城主としました。

 立派に整備された石垣などが残る安芸城跡へは、土佐くろしお鉄道阿佐線の安芸駅から無料レンタサイクルを利用して15分ほどで行けます。近くには「安芸市立歴史民俗資料館」や見学できる「武家屋敷」などもあり、何気に見所の多いスポットとなっています。

四万十川古戦場(渡川古戦場)

 土佐東の敵であった安芸氏を討った元親は、次の標的として土佐西の勢力である名門、一条氏の吸収に着手します。

 周囲の国人たちを次々と吸収して勢いにのる長宗我部氏は一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込みます。1574年には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放し、兼定の子・内政に娘を嫁がせます。こうして元親は土佐国をほぼ制圧してしまいました。

 翌年に再起を図った一条兼定が伊予南部の諸将を率いて土佐国に攻め込んで来ました。3千5百の兵で現在の高知県・四万十市に位置する「栗本城」を奪い 、領地奪回の機会をうかがってきました。これを聞いた元親は、わずか3日後に7千3百もの兵を率いて進軍し、両者は渡川(四万十川)を挟んで対峙しました。土佐の覇権をかけた頂上決戦とも言うべき戦いがこの「四万十川の戦い」となるわけです。

 一時は窮地に追い込まれた長宗我部氏でしたが、元親の陽動作戦に兼定の陣形はたやすく崩れ、短時間で決着がついてしまいました。一条氏を撃破した元親は、家督相続から15年で土佐国を完全に統一したのです。

 四万十川古戦場には石碑が立てられています。四万十川橋西にある具同公園に案内板と共に「四万十川古戦場碑」があります。くろしお宿毛線の「具同駅」で下車し、徒歩約15分で行くことが出来ます。

 元親がまさに土佐を統一したころ、全国で最も勢いがあり、力を持っていた大名は織田信長でした。1575年に長篠の戦いで武田軍に勝利し、その翌年からあの安土城の築城にも着手していたノリノリの頃と言えるでしょう。

 石山本願寺との対決が長引いており毛利との決戦前という状況だった信長ですが、もし近畿を平定したら次に攻めるのは四国だろうと感じていたのでしょう。元親は姻戚関係にあった明智光秀の重臣・斎藤利三を介して、織田信長に嫡男・千雄丸の烏帽子親になってもらうことを願い出ます。併せて阿波へ侵攻することへの了解を求めているのです。後に信長は元親の阿波侵攻を許し、嫡男の烏帽子親も引き受けています。

 中央の権力者への配慮もかかさない元親の先見の明や賢さをも伝えるエピソードだと思います。

十河城

 土佐を統一し、中央で天下人となろうとしている織田信長と同盟を結んだ元親は、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していきます。

 阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田に敗れて衰退していたが、十河氏や三好氏の残党による抵抗に遭い思うように攻略できずにいました。

 1577年に三好長治が戦死するなど三好氏の力が急速に衰えると、元親は一気に阿波白地城を攻め激戦を繰り返し、1579年夏に十河氏の居城「重清城」を奪って十河軍に大勝します。この年には阿波国や讃岐国の勢力を次々と降伏させ、1580年までに阿波と讃岐の両国をほぼ制圧することに成功し、土佐・阿波・讃岐の三国を支配下に置きました。

 伊予方面においては、1579年春には南と東の地域は平定するも伊予守護の河野氏が毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため伊予平定は長期化することになります。伊予を平定すれば念願の四国統一となります。しかしここで同盟であったはずの織田信長が待ったをかけてきました。

 長曾我部の四国侵攻を容認してきた信長でしたが、あまりにも大きな力を持つようになった元親に脅威を感じたのかもしれません。明智光秀を仲介として長宗我部氏と友好な関係を結んできた信長でしたが、元親に対して急に態度を変えます。信長は元親に対し、土佐一国と阿波南部は与えるが、その他は返上して臣従せよと言ってきたのです。

 元親は当然これを拒絶します。このため信長と元親は敵対関係となり、織田軍もここぞとばかりに攻撃を開始してきました。

 1581年3月には信長の助力を得た三好康長や十河存保らが反撃を開始し、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えてきます。翌年5月には信長の三男である神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍も編成され、いよいよ元親率いる長宗我部家が窮地に立たされます。このとき元親は斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表していました。

 四国攻撃軍は6月2日に渡海して一斉攻撃を加える予定だったのですが、なんと!その日に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれてしまったのです。信長の死により絶大なる指揮官を失い、大混乱となった織田家は各地に侵攻していた軍を統べて撤退させることになります。四国を攻める信孝軍も解体して撤退してしまったので、元親は危機を脱したのです。

 そして元親は勢力地図から織田信長の名前が消えたことに乗じて、政治的に空白となっていた近畿への勢力拡大を図ります。宿敵であった十河存保を中富川の戦いで破り、第一次十河城の戦いにより阿波の大半を支配下に置きました。

 その年の9月には勝端城に篭城した十河存保を破り、阿波を完全に平定しました。10月には存保が逃れた虎丸城を攻め落としました。

 1583年、信長の後継を狙う羽柴秀吉が織田家の重鎮である柴田勝家らと激突した「賤ヶ岳の戦い」では、元親は柴田勝家と手を結んで秀吉と対抗します。

 これに対して秀吉は家臣の仙石秀久を淡路に配備し、小西行長の水軍も配備して長宗我部方の城を攻めさせましたがいずれも敗退しています。優勢に見えた柴田勢も4月になると数で勝る秀吉軍に敗れて滅んでしまいます。

 1584年には徳川家康が秀吉の天下は許さないと信長の息子・信雄を立てて秀吉に戦を挑んだ「小牧・長久手の戦い」でも、元親は家康と組んで秀吉に対抗しています。

 秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢と戦った「第二次十河城の戦い」でも元親が勝利しています。その勢いに乗じて伊予国においてもさらに勢力を拡大しています。

 6月には「十河城」を落として讃岐までも平定してしまいます。しかし小牧・長久手の戦いは秀吉と信雄が和睦したことで家康も引くしかなくなるという形で終結してしまいます。それでも元親は侵攻の手を休めず難航しながらも伊予の平定に成功し、1584年の終わり頃には河野氏を降伏させ、翌年春までには伊予の勢力をほぼ平定しました。

 第一次、第二次十河城の戦いの舞台となった「十河城」へは高松駅の8番バスのり場からフジグラン十川で下車して徒歩15分ほどです。

雪蹊寺

 長宗我部元親47歳にして、ついに四国全てをほぼ統一した瞬間でした。

 しかし信長亡き後の天下は急速に豊臣秀吉を中心としたものへと移行していました。近畿や中国地方の情勢も激しく動いており、宇喜多は豊臣に臣従し、毛利と豊臣の領土問題も一段落ついており、近畿・中国・四国地方では長宗我部だけが孤立していました。

 元親は秀吉に使者を送り、伊予や阿波・讃岐など領国の部分的な返上を申し出ますが交渉はまとまらず、1585年6月に秀吉は羽柴秀長を総大将とする10万もの軍勢を準備しました。そして淡路、備前、安芸の三方面から四国に侵攻してきたのです。

 対する長宗我部軍は総勢4万を阿波白地城を本拠に阿波・讃岐・伊予の海岸線沿いに配備し、防御を固めます。が、数の上で圧倒的に不利な長宗我部側の城は相次いで攻略され、 阿波の戦線が破られ危機に陥った元親はついに秀吉に降伏します。

 秀吉から所領を安堵されたのは土佐一国のみという悲しい結末となりました。

 長宗我部元親は上洛して豊臣秀吉に謁見し、臣従を誓いました。元親を服従させ四国を平定した秀吉は、1586年に九州の島津征伐に着手しています。きっかけは島津義久に圧迫されていた大友宗麟から秀吉に援助の要請がきたことでした。

 長宗我部軍は元親・信親父子が率いて、大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)の居城「府内城」へ援軍として出向いていました。また、四国攻めの功績で淡路・讃岐に10万石を与えられた仙石秀久が四国軍を監督する役として付いていました。

 戦が始まっても肝心の大友軍の士気は低く、最近まで敵同士だった者の寄せ集め軍のため、軍議もろくに進まないといった状況です。秀吉も持久戦を指示していたのですが、軍監役の仙石秀久が功を焦って戸次川を渡ると主張しだします。

 これに対し、長宗我部元親は息子の信親と共に猛然と反対しました。真冬の冷たい川を渡るなど身体が凍ってしまい危険です。無事に渡れたとしても凍えた身体では戦うどころかまともに動けません。

 しかし何を思ったか従軍していた十河存保らも川を渡ることに同調し、仙石久秀の川渡りでの出陣が決定してしまいました。これが長宗我部家にとって大きな運命の分岐点となってしまうのです。

 真冬の川を凍えながらどうにか渡り終えた秀吉の四国軍を待ち構えていたのは九州最強と言われる島津軍でした。島津勢は軍を4つに分け、先陣を切っていた仙石秀久本隊が出てきたのを見逃さず一気に攻め立て主力部隊で叩いたのです。

 仙石秀久はあっさり敗走し、川を渡って逃亡。残された長宗我部勢も踏ん張りのきくわけがなく、混乱状態となり、元親の息子・信親は、元親本隊と連絡を絶たれてしまいます。

 信親は幼い頃から聡明で勇気があり、早くから元親の後継者と決められていましたが、最後は奮戦むなしく討ち死にしてしまいます。乱戦の中で元親の消息も分からないまま孤立し、一歩も引くことなく戦地にふみとどまり、信長から拝領した左文字の太刀を振るって激戦の末に倒れたそうです。

 かつては長宗我部の宿敵だった十河存保もまた、この戦いで散っています。元親は命からがら伊予に落ち延びることができましたが、嫡男・信親のはじめ、多くの重臣を失う結果となります。信親の戦死を知った元親は自害しようとしましたが、家臣の諌めで思いとどまり、伊予国の日振島に落ち延びたのでした。

 信親の遺体は薩摩軍により埋葬されましたが、元親から命を受けた家臣が薩摩の陣に赴き、遺体と遺品を共に火葬するため貰い受けてきました。そして、浦戸の天甫寺に葬り塔を建てて供養していましたが、長宗我部氏の滅亡後に「雪蹊寺」に移されて現代に至ったと伝えられています。

 「雪蹊寺」は四国八十八ヶ所第33番の札所でもあり、弘法大師の開基と伝えられています。一時衰退しましたが、月峰和尚を住職として元親が保護したようです。

長宗我部信親墓所、秦神社

 「雪蹊寺」には戸次川の戦いで戦死した宣親の墓があり、「長宗我部信親公墓所」と石碑が立っており、「戸次川合戦戦没者供養塔」もあります。すぐ近くには長宗我部元親が御祭神としてお祀りしている「秦神社」もありますので、併せて供養に行くことができます。

 「雪蹊寺」「秦神社」へは、JR高知駅から車で約30分ほどです。とさでん交通バスに乗り「長浜営業所」で下車して徒歩約3分で行くことも出来ます。

高知城(大高坂城)、吉良神社

 1588年に元親は本拠地を高知城(当時は大高坂城と呼ばれていました)へ移転します。

 嫡男を失った長宗我部家では家督継承問題が起こり、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定したのです。

 その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興や吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行しています。吉良親実が切腹という形で粛清されると家臣7人が殉死し、その墓から7人の亡霊が出るとの噂が広まりました。その亡霊に出会った人は高熱が出て死んでしまうという「七人みさき」伝説として語り継がれているそうです。

 地元では心霊スポットとしても有名な「吉良神社」へは高知駅前からバスに乗り、西分(高知市)で下車して徒歩2分ほどです。

 そして元親が晩年を過ごし長曾我部の本拠地となった高知城は、JR高知駅から、とさでん交通「高知城前」で下車してすぐです。

浦戸城

 1589年ころには元親は秀吉から、羽柴の名字を与えられるほど気に入られていたようです。

 その翌年の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて秀吉軍に参戦し下田城を攻め、小田原城包囲網にも参加しています。下田城攻めの際には海上から攻撃をしており、文禄・慶長の役でも兵3千を連れ、自慢の大船・大黒丸を用意して土佐を出航しています。このときも水軍としての働きを期待されており、小田原攻め以降は四国を統一した頃とは長宗我部水軍も変わっていたのでしょう。

 本拠を高知城に移してからというもの、多くの水害に悩まされていました。そして、3年後の1591年には「浦戸城」に本拠を移してしまいます。

 「浦戸城」はそれまでは海からの防衛を主とした山城でしたが、水陸両面からの防衛を重視した本格的な城郭に改築し居城としたようです。本丸・二の丸・三の丸・出丸から構成され、五間四方3層の天守も備えられていました。 移転してから約10年間、子の盛親が関ヶ原の合戦で敗れるまで長宗我部氏の居城でした。

 高知を代表する景勝地であり坂本龍馬の聖地としても人気の「桂浜」ですが、背後の山一帯が長宗我部氏最後の居城、「浦戸城跡」なのです。

 ここはぐるりと海に囲まれた天然の要害であり、浦戸の港を擁し、上方との連絡や水軍の保有にも便利なところでした。

 関ヶ原の後に移ってきた山内一豊が高知城を新たに築くにあたり、浦戸城の石垣などを取り壊して運んだといわれております。

 石垣の一部と尾根の西方二ノ丸付近に堀切を残すのみの浦戸城へは、南はりまや橋から高知県交通「桂浜」行きに乗車し、「龍馬記念館前」下車してすぐです。

 今は民宿の桂浜荘と坂本龍馬記念館の建っているあたりが本城でした。雄大な風景と古城としての面影を偲ぶことができますので、坂本龍馬の聖地と併せて散策してみて下さい。

 天下を統一し絶大なる権力を欲しいままにしていた豊臣秀吉もついに亡くなります。秀吉の死から約半年後、1599年の春ころから元親は急速に体調を崩し病気がちになってしまいます。

 4月に病気療養のために伏見屋敷に滞在し、豊臣秀頼に謁見しますが、5月から病はさらに重くなり、盛親に遺言を残し、5月19日に世を去りました。当時としては長寿の61歳での大往生でした。遺体は京都は嵐山の天竜寺で火葬され、遺骨は故郷の土佐へと送られました。

一領具足の碑

 次は長宗我部家の礎となった「一領具足供養の碑」を紹介しましょう。

 「一領具足」とは、元親が安芸国虎攻めにあたり兵力増強に思いついた農兵制度です。平素は田を耕し農業を営む民が、城から動員の貝が聞こえわたってくると、クワ・スキを放り出し、その場から出陣していくという屯田兵の制度です。具足は一領、馬は替馬なしの一頭で戦場を走り回るため「一領具足」という呼称ができました。

 関ヶ原の戦いで敗れた長宗我部氏は土佐を取り上げられ、山内一豊が入国してきました。浦戸城の明け渡しを拒んだ旧臣の一領具足たちは家臣団と対立して戦いますが、討ち取られてしまいました。

 この「浦戸一揆」によって打ち取られた273人の首は大阪に送られ、胴体は浦戸に葬られ、一領具足供養の地として今も石碑が立っております。「一領具足供養の碑」は、南はりまや橋から高知県交通「桂浜」行き乗車し「地蔵前」にて下車して徒歩約3分ほどです。

愛馬の塚、長宗我部元親の墓

 そして最後は、今も元親公が静かに眠る「長宗我部元親の墓」へ行きましょう。

 交通の便が良くないのでレンタカーなど車で行くのがおすすめです。高知県道34号桂浜はりまや線を南に桂浜方面に進んでいくと看板が見えてきます。近くまで行くと様々な案内板が出迎えてくれるので比較的分かりやすいと思います。

 お墓へ向かう途中に「愛馬の塚」がありました。これは元親が豊臣秀吉から賜った名馬の塚で、戸次川の合戦で窮地に陥った元親を乗せて命を救ったという逸話が残されています。

 そこを更に奥へと進むと長宗我部元親の墓がありました。長浜の天甫寺山の南斜面の木々に囲まれてひっそりとたたずんでいました。思ったよりきちんと整備されていることに安堵しましたし、何より眠られている元親公の魂も休まると思いますのでありがたく思いました。

 高知と言うとどうしても幕末のヒーロー坂本龍馬の聖地として人気がありますが、長宗我部元親の生き様にも思いを馳せながら高知の史跡めぐりを楽しんで頂きたいと願います。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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