「長享の乱(1487~1505年)」関東管領家・上杉氏の衰退を招いた両上杉氏の戦い
- 2017/11/23
長享の乱(ちょうきょうのらん)は、関東管領を世襲した上杉氏の、山内上杉氏・扇谷上杉氏の間で、長享元(1487)年から永正2(1505)年まで続いた戦いです。内部分裂により上杉氏は求心力を失って弱体化。その間に伊勢宗瑞(北条早雲)が戦国大名として力をつけ、上杉氏による関東支配の時代はやがて終わりを迎えることになります。
享徳の乱の終結と、太田道灌の死
長尾景春の乱を鎮めた太田道灌
関東を舞台に、享徳3(1454)年から文明14(1482)年までおよそ28年にわたって繰り広げられた「享徳の乱(きょうとくのらん)」では、上杉氏は協力して足利成氏方と戦い続けました。
そんな中、山内上杉氏の家宰・長尾景信が亡くなり、次の家宰の座をめぐって争いが起こります。嫡子・景春が家宰を継げなかったことを恨み、文明7(1475)年に反乱(長尾景春の乱)を起こしたのです。
この反乱を鎮圧させたのが、扇谷上杉氏の家宰・太田資長(太田道灌※道灌の実名は「資長」とされているものの、当時の史料では確認できない。以後は便宜上「道灌」表記とする)でした。
景春は道灌を敵に回したくなかったのか、参陣しないよう(自分に味方するよう)言いましたが、道灌は拒絶。その後道灌の活躍により乱は鎮圧されますが、道灌が和解の仲介に動いたことは顕定に不審を抱かせたようです。
また、道灌のめざましい活躍は扇谷上杉氏の家名を高めることにつながり、上杉氏の宗家として関東管領職を独占してきた山内上杉氏と肩を並べるほどになりました。
誅殺された太田道灌
当初は大きな力をもっていなかった末流の家が、相模・武蔵南部の武家を従え、力をつけてきている。主君の扇谷上杉定正にとっては家を盛り立てた功労者のはずですが、有能すぎる道灌を脅威に感じたのか、文明18(1486)年7月26日、相模国糟屋館にて、道灌を誅殺してしまいます。
道灌はなぜ殺されたのか。当時の史料がないため想像することしかできませんが、後世の伝えでは、『上杉定正状』によれば江戸城や河越城などを補強して堅固な城郭を構える道灌が山内上杉氏への反逆を企てていると見たためであるとか。また、『永享記』によれば、家政を独占する道灌に、他の家臣らが不満を抱いていたとか。
山内上杉氏への反逆については、実際文明10(1478)年ごろから定正と顕定は不和となったようですから、敵対することを意識して動いていたとしてもおかしくはありません。
また、上記のとおり、顕定は長尾景春の乱鎮圧に動いた道灌に不審を抱いており、鎮圧後は景春についた山内上杉氏の被官層の帰参をとりなしたことも気に入らなかったようです。そうした背景から、道灌暗殺は扇谷上杉氏の地位が上がることを不安視した顕定が背後で動いていたという見方もあります。
先の享徳の乱も、鎌倉公方・足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を誅殺したことから始まりました。戦国時代は「下剋上」の時代といわれますが、その前には上が下を脅威に感じて先に威圧してしまう「上剋下」があったことを峰岸氏(『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』)は見出しています。
定正による道灌暗殺も、動機が後世に伝えられたようなものなのだとしたら、それに当てはまるでしょう。
道灌は風呂屋で斬りつけられ倒れた時、「当方滅亡」と言った(『太田資武状』)とか。これは道灌甥の孫が伝え聞いたことを話していたものです。
事実かどうかはわからないものの、この言葉は見事的中します。実際に扇谷上杉氏はそう遠くない未来に滅亡し、山内上杉氏も家名自体は長尾氏が継ぎ、本来の上杉氏は衰退に向かっていくことになります。
長享の乱、勃発
道灌暗殺後、江戸城は定正に奪われました。江戸城にいたと思われる道灌の嫡子・資康はこの時まだ11歳で、前年に元服したばかりでした。
資康は脱出して甲斐へ逃れると、山内上杉氏を頼りました。扇谷上杉氏の家宰家嫡男が山内上杉氏に従ったことで、両上杉氏の対立は決定的なものになります。
長享元(1487)年10月、定正は江戸城を補修しており、このころには来る顕定との対決に備えていたことがわかります。
武蔵の千葉自胤(よりたね)や相模の三浦道含(どうがん)・道寸親子らは山内上杉氏を頼った資康に同調。扇谷上杉方からは離反もあったようですが、享徳の乱では敵であった古河公方や長尾景春が味方につきました。
同年11月、扇谷上杉氏内部の同様を見た顕定は、実兄の越後守護・定昌とともに下野国の勧農城(栃木県足利市)で攻撃を始めます。
翌長享2(1488)年には、2月5日に相模国實蒔原(神奈川県伊勢原市)、6月18日に武蔵国菅谷原(須賀谷原/埼玉県嵐山町)、11月15日に高見原(小川町)などで合戦を行いました。
乱の初期に繰り広げられたこれらの戦いは俗に「関東三戦」と呼ばれます。いずれの戦いも扇谷上杉方優勢であったものの、決着はつきませんでした。
定正の死
延徳元(1489)年3月2日、定正は江戸城代の曾我豊後守に書状を送っています。先に触れた『上杉定正状』です。
ここには、道灌誅殺の理由、顕定と敵対した理由として、山内上杉氏のために道灌を殺したのに、顕定と対立することになったのは道理にあわないなどと書かれていますが、道灌暗殺以前から定正は顕定とは不和であったわけで、この言い分は筋が通らないように思えます。
これを肯定的に見て、扇谷上杉の家名上昇により山内上杉氏との溝が深まり、その原因が道灌であると考え、不安分子である道灌を取り除き、顕定と関係回復しようとしたのだとしても、結果対立を決定的にしてしまった上に有能な家臣を失ったわけで、これは定正の見込み違いでしょう。
この後なかなか決着がつかないまま、定正は明応3(1494)年10月5日に急死しました。享年52歳。荒川を渡ろうとして落馬したのが原因といわれています。
伊勢盛時(北条早雲)の登場
さて、少し時をさかのぼって、長享の乱勃発とほぼ同じころ、新たな勢力が動き始めていました。伊勢盛時(号は早雲庵宗瑞)です(「北条早雲」の名で広く知られる戦国武将。北条を名乗るのは早雲の死後で、本人はそう名乗ったことないが、便宜上、以後は「北条早雲」表記とする)。
長享元(1487)年11月、駿河の今川氏にクーデターが起こります。その中心にいたのが、今川義忠室の兄である北条早雲でした。
早雲は家督争いで妹が産んだ竜王丸(のちの氏親)を立て、その功で興国寺城(静岡県沼津市)に入りました。そんな中、関東では両上杉氏が分裂し抗争を繰り広げている。この機に関東侵出を目論み、早雲は伊豆へ移ります。
伊豆といえば、享徳の乱で成氏の代わりの関東公方として送られた足利政知(足利義政兄)がもつ国ですが、政知は延徳3(1491)年亡くなっており、堀越公方は茶々丸が継いでいました。
が、その家督相続は円満なものではなかったようで、ここでも内紛が起こっていました。早雲はこの混乱に乗じて伊豆を制圧。関東侵出の足掛かりとします。
早雲躍進の背景には今川氏の内紛で今川範満を支持していた太田道灌の死があり、また早雲は定正と組んでいたとされるため、のちの後北条氏誕生と両上杉氏の抗争は無関係ではありませんでした。
戦いは顕定vs朝良へ
定正の死後、その跡を継いだのは養子の朝良(ともよし)でした。永正元(1504)年9月、顕定と朝良は武蔵国立河原で戦います。扇谷上杉方には北条早雲と今川氏親が味方しており、ここは扇谷上杉方の勝利に終わります。
敗れた顕定は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に退却し、越後にいる弟・上杉房能を頼り、応援を要請しました。やってきたのは守護代・長尾能景の軍です。越後の軍事力を得た山内上杉方は盛り返し、形勢は逆転。扇谷上杉方の河越城、椚田城(東京都八王子市)、実田城(神奈川県平塚市)などを次々と攻略しました。
翌永正2(1505)年3月、朝良は河越城に逃れますが、山内上杉方に囲まれてついに降伏。朝良より和議の申し出があり、長く続いた乱はようやく終わります。敗れた朝良は出家し、扇谷上杉氏は養子の朝興が継ぎました。
また永正4(1507)年には、顕定の養子・憲房と朝良の妹との婚姻がなり、対立は解消。ふたたび同盟が結ばれました。
上杉氏を頂点とする関東支配体制の終わり
上杉顕定の勝利に終わった長享の乱。しかし、上杉氏による関東支配体制は終わりに近づいていました。
そもそも、劣勢から逆転し勝利したのは越後軍のおかげです。もともと上杉氏の権力基盤は長尾氏や上州周辺の在地領主らでしたが、長尾景春の乱以降の上杉氏の分裂により揺らぎ始めます。そこを補ったのが実家である越後上杉氏の軍事力であったわけです。
ところが、越後で事件が起こります。守護上杉房能が、守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に攻められ敗死したのです。顕定は為景討伐に出て為景を追い落とし、顕定自らが越後支配を行いますが、信濃国人の蜂起で再び為景が立ち上がると、永正7(1510)年6月20日に敗死。その間、北条早雲は上杉氏が留守の隙に相模東部を制圧しています。
争いはまだ終わりません。顕定の死後は関東管領をめぐって子らが争い、さらに古河公方でも足利政氏とその子・高基との対立が起こり、あちこち内紛だらけ。その間に、早雲はなおも関東で勢力を拡大していき、のちには関東のほとんどが後北条氏の手にわたることになるのでした。
【主な参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
- 峰岸純夫『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社、2017年)
- 黒田基樹『図説 太田道灌 江戸東京を切り開いた悲劇の名将』(戎光祥出版、2009年)
- 『歴史群像シリーズ37号 応仁の乱 日野富子の専断と戦国への序曲』(学研研究社、1994年)
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