「武市半平太」岡田以蔵や田中新兵衛に暗殺を指示した黒幕!維新を見ることなく没した、土佐勤王党の盟主

土佐郷士でありながら、わずか数年で藩政を牛耳り、京都留守居役にまで出世した男がいます。土佐勤王党の盟主、武市半平太(たけち はんぺいた)です。


半平太は白札格の郷士として誕生。幼少から文武に卓越した才能を見せ、周囲からの期待を集めました。
江戸の士学館では塾頭を務め、土佐では岡田以蔵や坂本龍馬の同志を得て土佐勤王党を旗揚げします。
尊王攘夷を実現するため、半平太は藩の参政・吉田東洋暗殺を同志に指示。藩政を掌握することに成功しました。


半平太は京都に出ると、岡田らに天誅(要人暗殺)実行を指示。尊王攘夷派の黒幕として活動します。
しかし八月十八日の政変が起きると事態は一変します。土佐勤王党は弾圧され、自身も囚われることとなってしまいました。
やがて捕縛された岡田以蔵が全てを自白。半平太らの行いは白日のもとに晒されることとなります。


半平太は何を目指し、何と闘い、どう生きたのでしょうか。武市半平太の生涯を見ていきましょう。


白札格の郷士


白札格の子として生まれる

文政12(1829)年、武市半平太(号は瑞山)は土佐国吹井村で、土佐藩郷士・武市正恒の長男として生を受けました。母は大井氏出身の鉄と伝わります。



父・正恒は土佐藩郷士でありながら、白札格として51石を有する武士でした。
武市家は、郷士となる前は豪農でした。郷士としても51石という石高を有しており、かなりの富を蓄えていたことがうかがえます。


土佐藩の武士階級は、大きく分けて上士(上級武士)と下士(下級武士)があります。
上士は藩主・山内家の家臣が、下士の中の郷士は、関ヶ原以前の長宗我部の旧臣が構成していました。


のちにその中間に白札が派生しました。
功績をあげて、土佐藩に認められた郷士は白札として上士としての待遇を受けました。
つまり、武市家の白札というのは、下士や郷士でも最上級の格式だったのです。




※参考: 土佐藩の階級
藩主
上士家老
中老(ちゅうろう)
馬廻(うままわり)
小姓組
留守居組(るすいぐみ)
下士白札(しらふだ)
郷士(ごうし)
用人
徒士(かち)
足軽
武家奉公人


半平太は、幼い頃から父・正恒から厳しい教育を受けて育ちます。
天保8(1837)年、わずか9歳のときに親元から引き離され、その後は高知城下の親類の家を転々とさせられました。こうした中で、正恒には武士の心構えや道徳を学ばせるという考えがあったようです。半平太が疎んじられたようにも見えますが、実際に正恒本人も自身の父から厳しい教育を受けていました。


のちに半平太は剣術や書画において優れた才能を発揮しており、幼い頃の環境が影響を与えた可能性があります。しかし一説には、父と不仲であったとも言われています。難しい幼少期を過ごした半平太の苦悩が偲ばれます。


剣術で頭角を表し、岡田以蔵と出会う

半平太は武市家を継ぐ身として、幼い頃から文武の修行に力を入れていきました。
天保12(1841)年、半平太は剣術家・千頭伝四郎に入門。剣術の基本はここで学び、次第に頭角を表していったようです。


しかし将来への期待がかけられていた半平太に悲劇が襲います。
嘉永2(1849)年、父・正恒と母・鉄が相次いで病没。半平太が残された祖母の面倒を見ることとなります。
家督を相続した半平太は同年、新町田淵の郷士・島村源次郎の娘・富子を妻に迎えました。


家庭を守る立場となってからも、半平太は剣術の修行を諦めません。
嘉永3(1850)年には吹井村から高知城下の新町田淵に転居。祖母の面倒を妻に任せる一方で、小野派一刀流の麻田直養(なおもと)に弟子入りしたようです。


既に半平太は同流で修行を積んでいたため、道場でメキメキと腕前を上げていきました。
同年中には初伝が認定。この頃から、半平太は近隣の若者たちに剣術の手解きを始めていたようです。

教えた中には、のちに運命を共にする岡田以蔵も含まれていました。嘉永5(1852)年には中伝にまで進んでいます。


坂本龍馬の盟友


土佐藩有数の剣客となる

時代のうねりと共に、半平太の運命は決定づけられます。
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府に開国を要求するという事件が起きました。
世情は騒然とし始め、幕府の権威は大きく失墜していきます。

危機感を持った土佐藩は、既に半平太の能力は藩も認めていたようであり、半平太に西国筋形勢視察の任務を与えました。しかし待遇に不満があったのか、半平太は辞退しています。


自己研鑽に励んでいた半平太は翌嘉永7(1854)年、新町に自分の道場を開設。同年には小野派一刀流の皆伝も取得しています。


本来であれば、剣術家として意気揚々とした出発となるはずでした。
しかし同年、土佐を安政南海地震が襲います。半平太や家族は無事だったものの家屋が被災。自らの住まいを失ってしまいました。


それでも半平太は挫けません。翌安政2(1855)年には、自宅を新築。そこで妻の叔父で槍術家・島村寿之助と共同して道場を開いています。


道場には、教え子であった岡田以蔵や中岡慎太郎も参加。半平太の声望によって、120人以上の門弟が集っています。
剣術の腕を見込まれた半平太は、同年秋に藩命で安芸郡や香美郡において剣術の出張教授を行なっています。既に周囲から一角の剣客として認識されていました。


高知駅前にある土佐三志士の像
高知駅前にある土佐三志士の像(左から武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎)

坂本龍馬との交流

やがて半平太に雄飛の時が訪れます。
安政3(1856)年8月、半平太は藩から江戸での剣術修行が許されて出府。土佐藩の臨時御用として、岡田以蔵らを伴っていました。


江戸では、鏡心明智流の士学館に入門。江戸三大道場(他に神道無念流の練兵館と北辰一刀流の玄武館)に数えられるほどの道場でした。半平太は卓越した剣の技量を、道場主・桃井春蔵に認められます。皆伝を授けられた上、塾頭となり弟子たちの指導にあたりました。


江戸滞在時、半平太は遠縁で盟友であった坂本龍馬とも交流を持っています。安政4(1857)年8月、二人の親類である山本琢磨が商人の時計を売却する事件を起こすや、二人で逃すという事件まで起きていました。半平太は江戸で成功していても決して驕ることはありませんでした。


9月、祖母の病が重くなったため、土佐に帰国します。安政5(1858)年には、藩の剣術諸事世話方を拝命し、二人扶持の加増を受けました。





土佐勤王党と暗殺


土佐勤王党の結成


時勢の変転は、少しずつ土佐を揺り動かします。
安政6(1859)年、土佐藩主・山内豊信(容堂)は一橋慶喜を将軍継嗣に擁立する運動を展開。しかし紀州藩主・徳川慶福(家茂)を要する幕府大老・井伊直弼によって隠居謹慎を命じられてしまいました。


井伊直弼は、一橋派や尊王攘夷派を次々と弾圧。安政の大獄によって多くの志士たちが処刑されています。
しかし翌安政7(1860)年3月、井伊直弼は桜田門外で水戸浪士たちに討たれてしまいました。


全国の尊王攘夷派は、この事件に衝撃を受けます。
土佐においても、郷士層は大いに触発されていました。半平太は同年に長州や九州など西国の遊歴に旅立ち、その動静視察に赴いています。少しずつ動乱の足音を察していたようです。


文久元(1861)年4月、半平太は江戸に出て長州や薩摩、水戸の尊王攘夷派と交流。幕府に攘夷を迫るべく提案しています。このとき、すでに半平太は土佐の郷士層を代表する立場となっていました。


同年8月、半平太は土佐藩中屋敷で同志と土佐勤王党を結成。尊王攘夷を標榜していました。
9月には帰国して坂本龍馬や岡田以蔵らにも加盟しています。加盟者の総数は200名近くに登りました。



同志に参政・吉田東洋を暗殺させる

半平太がまず行ったのは、藩政の掌握です。
当時の土佐藩は、参政・吉田東洋が中心となって動いていました。藩論は公武合体、および開国です。尊王攘夷を掲げる土佐勤王党の思想とは相いれませんでした。


2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図
※参考:2つの対立軸でみた、幕末の各思想(論)の概念図

文久2(1862)年、半平太は吉田東洋の説得を試みますが受け入れられません。結局、勤王党員の那須信吾らに命じ、吉田の暗殺を行わせています。土佐勤王党は、藩首脳部の山内大学らと結んで藩政を掌握。佐幕派は藩政府から排除されていきます。


次に中央政界での活動を画策。参勤交代の行列に加わり、京都に拠点を構えます。
京都において、半平太は藩の大監察・小南五郎右衛門らとともに他藩応接役を拝命。国事周旋活動に従事することとなります。

半平太は藩主・豊範の名で朝廷へ建白書を提出。王政復古を主張するとともに、畿内周辺を天皇の直轄地とするように進言しています。さらには姉小路公知ら攘夷派公卿と結び、幕府に対して朝廷から攘夷督促の使者を派遣させています。


天誅の黒幕


京都において、特に苛烈な所業だったのが天誅(暗殺)です。
半平太は薩摩出身の浪士・田中新兵衛と義兄弟の関係を構築。岡田以蔵と徒党を組ませ、多くの天誅を行わせていました。
暗殺の対象は、安政の大獄で弾圧側に回った目明し・文吉から、倒幕を説く志士・本間精一郎まで多岐にわたっています。


刀と侍のイラスト

幕末は数多くの要人の暗殺が行われました。特に暗殺行為で名を売った人間を「人斬り」と呼びます。
その中でも特に名をなしたのが、幕末四大人斬りと呼ばれる、肥後の河上彦斎、薩摩の中村半次郎と、前述の岡田、田中の四名でした。
いわば幕末の暗殺行為の半分に、半平太が関わっていたとも言えるのです。


実際に侍従・中山忠光は、半平太に前関白・九条尚忠と岩倉具視ら暗殺の刺客をかすように頼まれています。
しかし関白・近衛忠煕が京都での天誅を控えるように厳命。以降は天誅の指揮を行っていません。


以降も半平太は精力的に政治活動を続けます。
文久2(1862)年10月、攘夷督促の勅使・姉小路公知の雑掌という形で江戸に随行。江戸城に入城し、将軍・家茂に拝謁しています。


文久3(1863)年3月、上士格となって京都留守居加役を拝命。土佐藩史上、類を見ないほどの立身出世でした。藩の内外において、半平太は絶大な権勢を誇っていたのです。




半平太の捕縛と切腹


岡田以蔵の捕縛と自白


土佐勤王党の台頭は、前藩主・山内容堂の不興を買っていました。
容堂は公武合体派であり、佐幕派と距離が近い人物でした。半平太の能力は認めつつも、土佐勤王党に対して次第に藩政から遠ざけるべく動いていきます。


やがて決定的な出来事が半平太たちを襲います。同年8月、公武合体派の会津藩と薩摩藩が同盟を結び、御所から長州藩をはじめとする尊王攘夷派を追放するに及びました。世にいう八月十八日の政変です。


政変後、全国の尊王攘夷派は次第に勢いを失っていきます。翌9月、半平太らも藩により捕縛、高知城下に投獄されて取り調べを受けることとなりました。


半平太は上士格であったため、拷問を受けることはありませんでしたが、勤王党の同志の多くは郷士であり、いわば軽輩です。当然、取り調べでは苛烈な拷問にさらされていました。しかしいずれも吉田東洋暗殺に関して否認し続けています。


流れが変わったのは、年が変わってからです。元治元(1864)年4月、京都にいた岡田以蔵が捕らえられて国許に送還されて来ました。


やがて岡田にも拷問が加えられると、あっさりと天誅に関する内容を自白。犯行に関与した人間の名前を次々と明らかにしていきます。一転して半平太たち勤王党は、窮地に陥ってしまうのです。


土佐勤王党の壊滅

半平太に対しては、同心する者たちが行動を起こしています。土佐国の安芸郡では郷士・清岡道之助ら23名が勤王党員の釈放を求めて挙兵。藩政府は八百の兵を向けて鎮圧し、戦後に清岡らを斬首しています。


合祀だけでなく、上士でも半平太を救おうとする動きがありました。
乾(板垣)退助は、大監察として半平太らの取り調べを担当。しかし自身も勤王党とは近く、厳しい尋問には疑問を持っていました。
むしろ乾は、尋問において半平太に深く追及するつもりはなかったようです。


半平太の関与は曖昧で、証拠が足りない状況で解放されると考えていました。藩政府においても乾は同情的意見を展開。結果、乾退助は大監察を外され、江戸への騎兵修行を命じられて旅立っています。


半平太は自身への追及を覚悟していました。
妻と姉に自画像を送り、いずれくる拷問に備えて服毒自殺の準備も考えていました。しかし岡田以蔵らの自白があったものの、土佐藩は半平太らの罪を立証することはできません。


ここで容堂は一方的に罪状認定を行います。
慶応元(1865)年閏5月、半平太に下った処分は、主君に対する不敬行為のために切腹、というものでした。
岡田ら4名も斬首が決定し、刑は決定が下ったその日のうちに獄舎で執行されることとなりました。


半平太は体を清めて正装し、南会所大広庭に赴きます。
自らの腹を三文字に割腹。未だに誰も成し遂げたことがないという壮絶な切腹でした。
やがて両脇から二人の介錯人が心臓を貫き、半平太は絶命しました。


武市瑞山殉節の地(高知県高知市帯屋町)
武市半平太が当時切腹した付近にあるという、碑武市瑞山殉節の地(高知県高知市帯屋町)

享年三十七。辞世は「ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」と残ります。


明治24(1891)年、生前の功績が評価され、半平太に正四位が追贈されました。



【主な参考文献】
  • 松岡司 『武市半平太伝ー月と影と』 新人物往来社 1997年
  • 入交好脩『武市半平太ーある草莽の実像』中央公論新社 1982年
  • 瑞山会『維新土佐勤王党史』冨山房 1912年
  • 高知市HP 武市瑞山
  • 高知市HP 武市半平太旧宅及び墓

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。