「佐々成政」信長への忠節を貫き、最期に迎えた悲劇とは?

佐々成政のイラスト
佐々成政のイラスト
いきなりだが、佐々成政(さっさ なりまさ)は名将である。これほどの名将でありながら、信じられないほど哀れな最期を迎えた武将も珍しいだろう。同じようなキャリアを歩んでいた前田利家との差は、特に晩年に顕著である。

成政は単に不運だったのであろうか。様々な史料から読み解いてみたい。

三男でありながら家督相続

佐々成政は佐々成宗の三男として尾張の比良城に生を受けた。生年は天文5(1536)年1月15日とされるが、これには諸説ある。

『尾張佐々系譜』によれば、織田信長に仕え始めたのは、天文19(1550)年頃のことだという。

その後、2人の兄、政次・孫介が相次いで戦死したため、三男でありながら家督を継ぐこととなる。永禄3(1560)年、成政25歳の時であった。

永禄4(1561)年、森部の戦いで、池田恒興ととに稲葉又右衛門を討ち取るという大きな功を立てたのを皮切りに、数々の武功を挙げたという。それらが評価され、永禄10(1567)年には黒母衣衆の10人の筆頭となる。

元亀元(1570)年、姉川の戦いの前哨戦となる八相山の退口においては殿軍に参加し、鉄砲隊を指揮して活躍したと伝わる。

成政は早くから鉄砲の威力に関心を持っていたようで、長篠の戦いにおいても数千の鉄砲隊を指揮している。長篠の戦いにおける鉄砲の三段撃ちは成政の二段撃ちが原型となったという説すらあるのだ。


府中三人衆

天正3(1575)年、織田信長は越前(現在の福井県あたり)を制圧し、支配下に置いた。そして北陸方面の指揮官として柴田勝家を任命し、その与力として成政、前田利家、不破光治の3人が配された。 いわゆる府中三人衆である。

この三人衆には越前12郡の内、2郡10万石が与えられた。この領有は少なくとも当初は、発給文書が連名であることから領地は分配されず、収入のみを分配する形態であったと思われる。

成政は小丸城を築いて、居城とする。三人衆は越前に程近い越後の上杉と対峙していればよいというわけではなかったようだ。実際、石山合戦などにも三人衆は参加していることが、史料から確認できる。

北陸の攻略は容易ではなかった。一向一揆勢と上杉氏の両方と対峙しなければならないのだから当然のことである。特に、上杉謙信は軍神と称えられるだけあって手強く、精強で知られる勝家軍ですら翻弄される有り様であった。能登に進攻した謙信との手取川の戦いでは、散々にやられ撤退を余儀なくされている。

この状況は天正6(1578)年3月の謙信の急死によって一変、形勢が逆転した北陸方面軍にはさらなる追い風が吹く。天正8(1580)年、信長は石山本願寺と講和を結び、顕如は石山本願寺を退去する。石山合戦が終了したのである。

これに勢い付いた柴田勝家の軍勢が一向一揆を制圧。同年11月には遂に念願の加賀平定を果たした。勝家はさらに能登、越中にも侵攻するが、成政もこれに従軍している。

越中国主

越中には、神保長住が一定の勢力を保っていた。そもそもは親上杉であった神保氏の中にあって、反上杉を唱えた長住は異端の存在であった。そのため、一時は越中を追われて信長を頼り、家臣となった経緯がある。

成政は長住を支援すべく、富山城にはいり、越中平定のための軍勢を編成した。ところが天正10(1582)年3月、長住は富山城を急襲した敵方に捕えられるという失態を犯し、失脚する。

この事態を受けて、成政は越中守護に任命されたのである。成政は居城を富山城に定め、大規模な改修を行っている。

富山城の模擬天守
富山城の模擬天守。ただし史実に基づいた復元ではない。

本能寺の変

同年6月に本能寺の変が勃発したとき、北陸方面軍は魚津城を攻略し、上杉の勢力を越中から駆逐したところであった。

信長の横死の報に接した成政は、諸将が動揺して自分の領地に急いで退去する中、反撃に転じた上杉軍への防戦で手一杯であったという。

一方、北陸方面軍の指揮官であった柴田勝家も上洛を試みるが、備中高松城からの秀吉の中国大返しの迅速さには及ばなかった。その結果、主君の弔い合戦に勝利するという大手柄を秀吉に奪われたのである。

秀吉による中国大返しの行程
秀吉による中国大返しの行程

この辺りから成政の運命は暗転し始める。

賤ヶ岳の戦い

信長の弔い合戦に勝利した秀吉の勢いは凄まじく、織田家重臣筆頭の勝家を凌ぐ程であった。清洲会議においても、信忠の子三法師が後継者と主張する秀吉に主導権を握られ、織田政権は秀吉の傀儡も同然となる。

危機感を募らせた勝家は秀吉と対立を深めていく。

成政は勝家の与力であったこともあり、勝家方についたのであるが、上杉への備えを緩めるわけにもいかず、越中を離れることが不可能であった。このため、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いには叔父の佐々平左衛門が600の兵で参加するにとどまった。

この合戦では府中三人衆の1人であった前田利家が急に戦線離脱し、勝家軍は総崩れとなったことは良く知られている史実である。 建前はともかく実質的な利家の裏切り行為により、勝家方は大敗を喫したのだった。

成政は本戦には着陣していなかったこともあり、娘を人質に差し出すことで秀吉に許され、越中一国の所領を安堵されている。

興味深いことだが、この頃畿内では、「佐々成政の裏切りによって勝家が滅んだ。」という風説が流れていたことが『多門院日記』に記されている。

これは全くの事実無根であろう。どう考えても利家の裏切りが敗因であることは一目瞭然だ。一体このような風説を流したのは誰なのか。ここで『多門院日記』について調べて見ると、興味深いことがわかる。

『多門院日記』は、かなり長い期間記された日記であるため、後世の整理・編纂作業が必要であったと伝わる。その編纂事業に関わった人物の一人が加賀前田家5代前田綱紀であるという。

実は、前田利家と佐々成政は不仲であったという説が存在する。その件と『多門院日記』の記述には関連があると私は推察しているが、この件については後述したい。

反秀吉

秀吉の配下についたかに見えた成政であったが、その後次第に反秀吉の姿勢を鮮明にしていく。小説やドラマ等の筋書きでは、成政はそもそも成り上がり者の秀吉を嫌っていたということになっていることが多い。

ところが、私が調査した限りでは、そのような記述のある史料は見つけられなかった。どちらかと言うと利家と成政の関係についての記述の方が、目に留まることが多かったのである。

利家と成政の関係には不仲説とそうでないという説の2つが存在する。

『常山紀談』には、美濃攻めの際に利家と成政が討ち取った稲葉又右衛門の首を譲りあったため柴田勝家が首を挙げて、その仔細を信長に報告して皆褒められたという記述がある。

この記述を信用するなら、成政と利家は少なくとも仲違いしていたようには見受けられない。しかし、『常山紀談』は史料としての信憑性に問題があるとも言われるので鵜呑みにはできない。

実際、『信長公記』では稲葉又衛門を討ち取ったのは成政と池田恒興となっており、こちらの方が事実ではないかと思われる。また、前田利家自身が語ったところによれば、若い時分に出仕停止の処分を受けた十阿弥殺害事件において、成政に遺恨があったのだという。

どういうことかというと、成政の嘆願で十阿弥の窃盗を許したにもかかわらず、顔を立てた成政に悪口を言いふらされたのが原因のようなのだ。それ以降成政を嫌っていたと利家は述べている。

ひょっとすると、成政は秀吉よりも利家と仲違いしていたのではないだろうか。

もちろん、エリート集団黒母衣衆上がりの成政にとって、秀吉は元は百姓の成り上がり者という偏見があり、快く思っていなかったのは事実だろう。しかし、利家は出自・経歴ともに似ているがために互いに意識しやすかったという点から、いがみ合いが起こりやすかったものと思われる。

秀吉に下ったというのも面白くないが、勝家を裏切り秀吉についた利家の後塵を拝するのはさらに屈辱であったのではないか。利家としても自分の領国の隣に反旗を翻しそうな元同僚がいるのは、寝覚めがよろしくなかったに違いない。

ここで、『多門院日記』の話に戻ろう。

私は成政裏切りの風説を流したのは秀吉方の誰かではないかと睨んでいる。もしくは、前田綱紀が編纂に関係しているのが事実ならば、文書を改竄させた可能性はないだろうか。 「男の中の男」と評された利家の名誉を棄損しないよう計らう勢力がいたと思えてならない。

さらさら越え

徳川家康が反秀吉の立場を鮮明にし始めたのは天正12(1584)年3月頃のこととされる。

これに呼応して成政も秀吉に反旗を翻し、隣国である利家の領地に攻撃を仕掛け始めるも、末森城の戦いでは利家の背後からの奇襲にあえなく敗れている。

この家康の動きは信長の二男信雄との同盟に端を発し、小牧長久手の戦いに発展する。この戦いで家康は秀吉と互角に戦い、戦況は膠着状態となった。そんな折秀吉は信雄を調略し単独講和を結んでしまうのである。

織田信雄の肖像画(総見寺蔵)
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉と不和になり、家康を頼った織田信雄。

梯子を外された家康は秀吉と講和を結び、合戦は11月に終結となった。成政はこの後に及んでも、反秀吉の動きを止めなかったのだ。

何と厳冬の来たアルプスを越えて浜松の家康に会い、再起を促したが家康は動かなかったのである。世に言う「さらさら越え」である。

このさらさら越えはかなりの過酷さが想定され、史実であることを疑問視する向きもあるようであるが、『家忠日記』にも記述されているれっきとした事実である。

天正13(1585)年になっても反抗を続ける成政に業を煮やした秀吉は討伐を決意し、自ら10万の軍勢を率いて富山城を包囲した。信雄の仲介により命は助かったものの所領没収の上、大坂への移住を命じられる。

肥前国主となるも切腹に

天正15(1587)年、成政に転機が訪れる。九州征伐に従軍していた成政は戦功を挙げ、その論功行賞より肥後一国を与えられたのだ。

肥後は国人衆の力が強く、治めにくい土地であったと言う。

秀吉は急激な改革を避けるようにと成政に指示したにも関わらず、成政は何故かこれに従わなかったという。その結果、国人衆が反乱を起こし、自力でこれを鎮圧出来なかったことに秀吉は激怒したと伝わる。

天正16(1588)年、成政は幽閉先の尼崎で切腹を命じられたのである。

あとがき

佐々成政は決してダメダメな武将ではない。それどころか前田利家に優とも劣らぬ武将であることは間違いないところである。

それなのに、ここまで書いてきてその生涯の後味の悪さに改めて驚いてしまう。秀吉という人物の捉え方で、片や豊臣政権の重臣、片や切腹と真逆の生涯を送ってしまったような気がしてならない。

同様の武将として北条氏政がいる。彼も信長には恭順の姿勢を見せながら、百姓上がりの秀吉の天下を頑として認めようとはしなかった。彼とて北条氏康程では無いにしろ、優れた武将で有ると思われるのにである。

昨今パンデミックのあおりで様々な価値観が転換しつつあるが、秀吉と言う新しい価値を認められずに散って言った人々と同じ轍を踏むまいと気持ちを新たにした次第である。


【主な参考文献】
  • 森本繁『佐々成政と織田軍の鉄砲活用』学研プラス 2015年
  • 遠藤和子『佐々成政』学陽書房 2010年
  • 湯浅常山『常山紀山』 岩波文庫 1938年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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