「本願寺顕如」本願寺法主・加賀大名として、「仏法」のための戦いに身を投じた生涯

戦国時代、僧でありながら時の権力者・織田信長と11年にわたって戦った人物として知られるのが本願寺顕如です。

本願寺教団のトップである法主顕如の号令のもとに各地の本願寺門徒が武装して戦った石山合戦は、一向一揆の構成員が民衆であることから、「民衆による権力への抵抗」と理解されがちです。しかし、顕如は権力に抵抗するために信長に挑んだのではありませんでした。それは信長との戦い以前に、本願寺が外交によって仏法を守ってきたことからも見えてきます。宗教者でありながら、大名、公家でもあった顕如の生涯をみていきましょう。

顕如の誕生

天文12(1543)年1月6日、顕如は本願寺第10世法主(宗主)である証如の長子として、大坂本願寺にて生まれました。幼名は茶々。ちなみに、一般に知られる「顕如」の名は法名で、諱は「光佐(こうさ)」といいました。

母は庭田重親の娘・顕能尼です。母方の祖父・重親は第8世法主・蓮如の孫(母が蓮如の十女)にあたり、顕如は父方・母方両方から蓮如の血を引いています。

天文23(1544)年8月13日、父・証如が亡くなりました。証如が病に伏したのは夏ごろからでしたが、容態が急変したため、顕如は父の死の前日12日に急遽得度の儀(出家の儀式)を行い、第11世法主になりました。

このとき顕如はまだ12歳。幼くして法主を継いだ顕如を後見したのは、祖母の鎮永尼でした。これは死の淵にあった父・証如の遺言によるもので、自分の死後は「大方殿」つまり母・鎮永尼にすべて任せるとしたのです。

当主亡き後の代理の主(後見)として前当主の妻や母が力を持つのは、北条政子、日野富子の例があるように、武家社会ではままあることでした。この時、顕如の母・顕能尼はまだ若かったため、祖母が後見を任されたのでしょう。

永禄2(1559)年、本願寺は門跡成を勅許されています。

如春尼との政略結婚。顕如以前から続く戦国大名との外交

顕如の結婚は弘治3(1557)年4月、15歳の年でしたが、実は誕生の翌年天文13(1544)年にはすでに婚約していました。

相手は左大臣・三条公頼(きんより)の三女で、如春尼(にょしゅんに)と呼ばれた女性です。この結婚により生じたのは三条家との結びつきというより、複数の戦国大名との関係でした。

というのも、如春尼は生まれて間もなく細川晴元の猶子となっており、なおかつ結婚の前に六角義賢の猶子となっていたのです。こうして顕如は細川家、そして近江六角氏と姻戚関係になりました。

それだけではありません。如春尼の姉ふたりの嫁ぎ先にも注目すると、長姉は如春尼の義父でもある細川晴元、次姉は武田信玄の室です。顕如は信玄と相婿。甲斐の武田氏ともつながりができました。

父の証如は婚約の際には、細川家の役に立つことでもないのに、と迷惑がっていたようですが、婚約の打診を拒んで波風立てて細川家との関係がこわれても困るので、受け入れたようです。

こうして顕如は一度の結婚により細川・六角・武田3氏とのつながりができたわけですが、武家と積極的に交流したのは何も証如や顕如の代に限ったことではありませんでした。

浄土真宗の教義をわかりやすく説いたいわゆる「御文」で広く布教した第8世法主・蓮如のころから、幕府とのつながりはありました。蓮如の最初の正室と、その次の正室とは、ふたりとも室町幕府で政所執事を世襲する伊勢貞房の娘でした。

また、本願寺法主は代々日野家や広橋家の猶子となる慣例から、蓮如の子らは日野富子の兄・日野勝光の猶子となっています。このことから、蓮如のころから幕府との密接なつながりがあったことがみてとれます。

「百姓の持ちたる国」の大名

顕如以前

宗教者でありながら諸大名と外交関係にあった本願寺。本願寺のトップである法主は、加賀大名に準ずる地位にもありました。

第8世法主・蓮如は文明年間に北陸で布教活動を行いました。当時の加賀国守護は富樫氏でしたが、本願寺門徒らの一揆(加賀一向一揆)によって長享2(1488)年に衰退してしまいます。

以後、本願寺が織田信長に敗れる天正8(1580)年までのおよそ90年間、この地は武士ではなく「百姓の持ちたる国」と呼ばれました。本願寺はその間、幕府や諸大名から加賀の大名的な扱いを受けていました。

さて、先述のとおり顕如は細川・六角両氏と姻戚関係にありました。が、それ以前から両氏とは外交関係にありました。加賀大名としての関係はもちろん、細川晴元は本願寺にとって所在地(摂津)の領主であったことも見逃せません。

本願寺は顕如が生まれる前に一時、将軍・足利義晴と敵対する立場にありましたが、天文5(1536)年に赦免されています。これを進めていたのが細川晴元と六角定頼でした。その際、本願寺は六角氏領内の本願寺門徒を破門することを条件に六角氏との和睦にこぎつけました。

本願寺にとって門徒を切るのは痛い決断でしたが、それよりも六角氏との関係を重視したい思いがあったのでしょう。

それ以外にも、本願寺は各地の諸大名と外交関係にありました。本願寺が外交を重視したのは、単に加賀大名に準ずる地位にある者として幕府体制の一員として行動したというだけでなく、諸大名との外交関係が本願寺教団を維持するために必要であったからです。

全国各地にいる本願寺門徒は、それぞれの国を治める大名のもとにあり、その地位は本願寺と領国の大名との関係に影響されました。本願寺と大名の関係が良ければ門徒の地位は安泰ですが、関係が悪ければ門徒の地位は脅かされました。

本願寺にとって何より大事なのは仏法を守ることです。各地の門徒の地位が安定していればその地での信仰は守られました。つまり、本願寺は仏法のためにも大名と良好な関係を維持する必要があったのです。これは逆に、大名の立場から見ても本願寺との関係維持は領民をコントロールする上でメリットになっていました。

本願寺の大名との外交は、信仰のために顕如以前から日常的に行われてきたことでした。

外交を維持するために戦った本願寺

加賀の隣国・越前との関係を見ると、加賀一向一揆と越前の朝倉氏とは長らく対立関係にあったことがわかります。しかし、これは加賀・越前間の独立した争いではなく、幕府の権力争いも絡んでいました。

同じく、弘治元(1555)年からの抗争についても、越後の長尾氏(上杉謙信)と甲斐の武田氏の第二次川中島の戦いに連動していました。朝倉氏の攻撃は長尾氏と呼応したものだったのです。

つまり、加賀一向一揆と越前の純粋な勢力争いではなく、両者と外交関係にある大名との関係によって起こった抗争でした。これは加賀一向一揆の構成員である本願寺門徒、そして彼らが属する本願寺の信仰とは無関係の戦いだったのです。

また、永禄年間の長尾景虎の関東侵攻に際して、関東の北条氏康は本願寺に対し、越中に侵攻してほしいと依頼しています。その条件として、永正3(1506)年以来一向宗が禁止されていた氏康の領内で、本願寺門徒の信仰を許すことを挙げています。本願寺と大名の外交が仏法を守る(門徒の地位の安堵)ことに直接つながった一例です。

また、長尾氏との対立には、もちろん姻戚関係にあった武田氏との関係も絡んでいます。ちなみに、長尾氏(上杉氏)とは信長との石山合戦が始まって以降も戦い続けており、本願寺が信長打倒に全精力を傾けていたのではないことがわかります。

上杉謙信とは、天正3(1575)年末から和睦に向かいます。これはこのころに謙信と信長が対立し始めたことによります。そしてその背後には、将軍・足利義昭(信長と敵対)の存在がありました。

このように、本願寺の諸大名との戦いには、外交問題が絡んでいたことがわかります。本願寺は外交のために門徒を動員したわけですが、その名目は「仏法のため」でした。

抗争のきっかけに本願寺の教義や信仰が無関係であることは間違いありませんが、これについて神田千里氏は、「本願寺が「仏法」を本願寺(教団)それ自体と同等のものと位置付けていた事情がある」(『ミネルヴァ日本評伝選 顕如 仏法再興の志を励まれ候べく候』70頁)と述べています。

本願寺と大名との関係が良ければ門徒の地位は安定して仏法は守られ、逆に関係が悪化すればそれが揺らぐ。つまり、本願寺が諸大名と良好な関係を維持できない=仏法の破滅と考えたのです。直接ではないにしろ、本願寺が戦うのはやはり「仏法のため」でした。


信長との戦い(石山合戦)へ

元亀元(1570)~天正8(1580)年までの11年間、本願寺は織田信長と戦いました。いわゆる「石山合戦」です。

本願寺蜂起の理由とは?

きっかけは、ここまで述べてきたとおり、外交と、そして仏法のためです。

顕如が各地の門徒に蜂起を呼びかけた檄文は有名です。その中で顕如は「信長が本願寺を破却すると言った」としていますが、顕如の言い分が正しいならば、本願寺の攻撃に「仰天した」(『細川両家記』)という信長の様子には疑問が残ります。先に挑発したのが信長ならば、本願寺の蜂起は予測できたはずです。

また、この時信長は幕府軍として戦っていましたが、将軍の義昭は天皇の綸旨で本願寺に停戦を促しており、幕府としては本願寺との敵対は本意ではなかったということがわかります。

顕如が示した理由は攻撃するための建前にすぎなかったのかもしれません。本当の理由は、本願時と反信長勢力との外交関係から見えてきます。

姻戚関係にあった六角氏、朝倉氏(義景娘と顕如の長子・教如が元亀2年6月までに結婚)、そして直前から同盟関係にあった浅井氏、三好元長の時代から関係を維持してきた三好氏(三好三人衆)。のちに信長と義昭が対立すると俗にいう信長包囲網が形成されますが、その一角を担った武田氏は顕如の相婿です。当然これも無視できません。

石山合戦

11年の抗争の間、顕如は三度信長と和睦しています。

一度目は朝倉・浅井氏が滅亡した後のこと。天正元(1573)年11月、顕如は名物茶器の白天目茶碗を信長に贈りましたが、この和睦は5か月しかもちませんでした。

二度目の蜂起は天正2(1574)年4月でした。この蜂起にも義昭が関わっていて、やはり本願寺の信仰とは無関係です。同年7月、信長は伊勢長島一向一揆を討伐。焼き討ちにより殲滅され、およそ2万人もの死者が出ました。同じように、越前一向一揆も1万人以上の使者が出ています。

天正3(1575)年10月、本願寺は信長に降伏。二度目の和睦です。このまま何もなければそのまま信長に服属していたのかしれません。しかし状況が変わりました。敵対していた上杉氏と武田氏が和睦し、のちに北条氏とも和睦。これは義昭の働きによるものです。

また、加賀一向一揆は上杉方につき、越前の柴田勝家と対立。そしてそのころ義昭は、中国の毛利氏を味方につけました。皆、義昭のもとに集った大名です。そして同じく幕府体制下にある本願寺顕如も、将軍に従う立場にあります。

本願寺が再び蜂起するのも当然の流れでしょう。天正4(1576)年4月、信長は本願寺を攻撃しています。こうして三度目の戦いが始まりました。

信長は本願寺を包囲しますが、水軍を持つ毛利により織田の水軍は敗れます。この失敗を受け、信長は志摩の九鬼嘉隆に大船を造らせました。5000人が乗る、幅7間(約13m)、長さ12、3間(約23m)の巨大な鉄甲船で、天正6(1578)年、今度は毛利水軍がこれに破られます。本願寺は毛利との開城連絡を遮断されてしまいました。

同年、信長家臣・荒木村重が突如寝返り本願寺と同盟を結びますが、翌天正7(1579)年12月には信長に敗北した有岡城の荒木一族・家臣らが処刑されています。

和睦へ

同じころ、信長の朝廷への働きかけにより、「和睦せよ」という勅命が本願寺へ下されます。まだ臨戦態勢にはあったものの和睦交渉が進められ、翌天正8(1580)年3月には信長の和睦条件が示されました。そして閏3月、ついに信長と和睦に至りました。顕如は信長の求めに応じ、大坂を出て紀伊国鷺森へ移りました。

一方、顕如の子・教如はその後も和睦を拒否して決起しますが、顕如はこれを批判して教如と絶縁し、各地に「教如に味方しないように」という書状を送っています。


信長亡き後の動き

信長との戦いが終わり、顕如もようやく人心地がつくかと思いきや、天正10(1582)年6月、本能寺で信長が明智光秀に討たれるという事件が起こります。

顕如はひとまず光秀に書状を送ろうとしますが、届けられる前に光秀の敗死を知り、引き返しました。
また、このころ教如との絶縁を解き和解しています。

その後、顕如は一貫して秀吉に協力しました。賤ヶ岳の戦いで羽柴・柴田の決着がつく以前から秀吉方についたのは、どうやら秀吉が本願寺門徒であった(『多聞院日記』)ことが関係していそうです。

秀吉が本当に本願寺門徒であったかどうかはわかりませんが、母のなかが門徒であった(ルイス・フロイス『日本史』)という証言もあります。秀吉もしくはその母が門徒であれば良好な関係を築きやすい。本願寺が仏法を守っていく上で重要なことでした。

天文11(1583)年7月、本願寺は和泉の貝塚へ移転。また天文13(1585)年には中島の天満へ移転しています。

顕如の死。本願寺は東西分裂へ

晩年の顕如は、天正14(1586)年に准三宮(准后)宣下を受けました。その前には大僧正に任ぜられています。それから数年、天正19(1591)年に秀吉が京都堀川の地を寄進し、また本願寺の移転が決まります。

京都は山科本願寺があった地で、父の証如が生まれた場所です。顕如はここに移り住みましたが、翌文禄元(1592)年11月24日、顕如は中風(脳卒中)で亡くなりました。50歳の生涯の多くを戦に費やしてきましたが、その目的はずっと仏法のためでした。

移転された本願寺は、現在の西本願寺です。顕如の死後に法主となったのは教如でしたが、翌年に教如ではなく三男の准如に法主を継がせるとの顕如の譲状が妻・如春尼によって示され、間もなく准如が法主に。この譲状には偽文書説がついてまわり、いまだに真相はわかっていません。

顕如が准如に継がせようとしたならば、おそらく信長と和睦した時の教如の行動により生じた不和の結果でしょうが、これがやがて本願寺を東西に分裂させる要因のひとつになるのでした。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 神田千里『ミネルヴァ日本評伝選 顕如 仏法再興の志を励まれ候べく候』(ミネルヴァ書房、2020年)
  • 神田千里『戦国と宗教』(岩波書店、2016年)
  • 神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社、2010年)
  • 神田千里『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』(吉川弘文館、2008年)
  • 小和田哲男監修『週刊 ビジュアル日本の合戦 顕如と石山合戦』(講談社、2005年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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