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「池田輝政」関ヶ原の功績で父恒興を大きく超える大出世!

池田輝政の肖像画
今やユネスコ世界遺産として国外でも有名な姫路城。この名城の実質的な造営者であり、初代姫路藩主だったのが池田輝政である。織田信長から豊臣秀吉、さらには徳川家康まで天下の将軍たちに仕えながら、最後は「姫路宰相100万石」などと称されるまでに出世を果たした。そんな輝政の生涯について、ここでは解説しよう。

誕生から初期の戦功まで

池田輝政は永禄7年(1564年)に、織田信長の家臣であった池田恒興の次男として誕生した。幼名を「古新」とし、通称名では「三左衛門」と呼ばれた。元服後は当初「照政」を名乗っていたが、やがて「輝政」に改名している。

天正元年(1573年)になると、母方の伯父であり池田家の家臣であった、荒尾善久の養子に迎えられた。その後、天正6年(1578年)7月には、信長の家臣・荒木村重が突然起こした謀反を鎮圧するため(有岡城の戦い)、織田軍側として父や兄と共に戦いに加わり、輝政は初陣を果たす。さらに戦いは翌年まで続き、花隈城の攻城戦(花隈城の戦い)では大活躍を見せ、武士としての名を挙げたのだった。この戦功により、信長からは名馬を下賜されている。

秀吉からの厚い信頼

天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が討たれると、その後に後継人として台頭した羽柴秀吉へ池田一族は仕えた。天正11年(1583年)、父恒興が秀吉から美濃国を与えられ、大垣城主になると同時に、輝政も領内にあった池尻城主に任じられた。しかし翌年の小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍の一員として参戦するものの、徳川軍に父と兄が討ち取られてしまう。失意のうちにありながら、父の家督を継いだ輝政は大垣城主となり、天正13年(1585年)には13万石の岐阜城主に任じられた。

その後は天下統一を目指す秀吉の配下として全国各地を転戦し、戦功や実績を重ねていった。特に紀州雑賀攻めをはじめ、九州征伐や小田原征伐などはその代表的なものである。秀吉からの信用も厚くなった輝政は、天正16年(1588年)には羽柴姓と従四位下侍従を与えられて、「羽柴岐阜侍従」などと呼ばれている。

家康への忠誠

豊臣政権下においては、輝政は豊臣家一族とほぼ同格に扱われるなど、手厚い処遇を受けた。まず数多くの戦功や厚い信頼性から、東三河の15万2千石を与えられ、吉田城主となる。また、当時は秀吉の後継者として目されていた豊臣秀次の側近としても重用された。文禄3年(1594年)には秀吉の仲介により、家康の次女であり、北条氏直の元正室でもあった督姫を娶った。なお秀次失脚による一族の粛清(秀次事件)の際にも、輝政の妹である若御前だけは助命された。それだけ輝政の家格は高かったのである。秀吉による朝鮮出兵の際には、国内守備を命じられると同時に、大船の建造や兵糧米の輸送といった兵站業務も担当している。

慶長3年(1598年)にその秀吉が亡くなると、豊臣家は求心力を失い始める。それに代わって徳川家康が台頭し、輝政も家康へ鞍替えする動きを見せた。その象徴的事件の1つが、慶長4年(1599年)石田三成襲撃事件である。秀吉亡き後の豊臣家を取り仕切っていた石田三成を、福島正則加藤清正らと共に襲撃したのだった。これを境目にして、輝政らは家康に急接近。翌年の関ヶ原の戦いでは家康の東軍に属し、その前哨戦でもある岐阜城の戦いで、織田秀信の守る岐阜城を攻略し戦功を挙げた。さらに本戦では、毛利秀元や吉川広家ら西軍の一大戦力のいる南宮山と対峙し、これを牽制することに徹している。

国持ち大名へ

関ヶ原の戦い後、輝政のその功績により、播磨国姫路城主52万石を家康から与えられ、姫路藩の初代藩主になった。まさに輝政が国持ち大名として、大いに出世を果たした瞬間であった。ちなみに輝政の次男である忠継の備前28万石や、3男忠雄の淡路6万石、さらに他の地検分を合わせると、100万石近い石高に達した。このことから「姫路宰相100万石」などと称されるようになった。そして慶長6年(1601年)になると、いよいよ姫路城の大改修に取り組むことになる。同時に加古川をはじめ、領内の治水事業も進めていった。この他にも江戸城や名古屋城など、徳川家の天下普請にも精力的に関わり、ますます家康から信用された。そのおかげで、慶長17年(1612年)に松平姓と正三位参議に任じられ、池田の家格を高めたのだった。

突然の死去

しかし慶長18年(1613年)1月に、輝政は姫路城内で急死してしまう。享年52であった。死因については明確になっていないが、一説によると脳卒中、あるいは好色による性感染とも言われている。なお、かねてから輝政の病状を聞いていた家康は、本多正純らを通じて希少な薬などを遣わしている。また姫路城の大改修でのエピソードとして、家臣から立地に問題があることを直言された際には、「小さいことを考えるな。戦は大地に打って出て勝利するものぞ」(名将言行録)と答えて一蹴した。このことから、「沈毅、寡欲にして大略あり」(同)と言われた、輝政の人柄をうかがい知ることができるであろう。また城下には輝政の通称名である「三左衛門」を冠した、町名や堀が今でも残り続けている。





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