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「おまつ(芳春院)」前田家を常に支えた利家の正室

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芳春院は戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国(石川県)を支配下に置いた戦国大名前田利家の正室である。 名をまつという。豊臣政権下において五大老にまで上り詰めた夫前田利家と、前田家を支えるために生涯にわたって奔走したその一生に迫る。

出生から輿入れまで

1547年7月9日、尾張(現在の愛知県)に生まれる。父親は織田家家臣の篠原主計。 父親の死後、母の再婚に伴って母の妹の嫁ぎ先である尾張荒子城主・前田利昌に養育されることとなる。数え年にして12の時、利昌の子である従兄弟の利家と結婚。年齢は一回り違っていた。 特筆すべきは二人の間にできた実子の数である。1559年の長女幸姫の誕生から1580年の六女千世まで2男9女を産んだ。女性一人が出産する子供の数が比較的多かった戦国時代にあっても11人もの実子がいる女性は稀であり、現存する記録の中では最も多い。

長女の幸姫の誕生後、夫である前田利家が織田家を追い出されてしまう不祥事を起こす。その後、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いなどで戦果を上げ織田家に帰参することを許されるが、長女誕生からのこの期間は夫婦にとってとても厳しい境遇であったことが予想される。織田家帰参が叶った翌年の永禄5年(1562年)には待望の嫡男である犬千代(のちの前田利長)が生まれている。

天正2年(1574年)に生まれた四女の豪姫は豊臣秀吉と正室であるおね(北政所)の養女となっている。利家と秀吉は共に織田家の家臣であり若い頃から親交が深かった。秀吉とおねの間には実子ができなかったため、利家とまつは四女の豪姫を養女とすることを決めた経緯があるようである。特に二人の妻であったまつとおねの親交は厚く、お互いの結婚の際にも仲人役を引き受けたりとその親友ぶりが伺えるエピソードが残っている。

転機となった信長の死

まつの人生に大きな転機が訪れたのは天正10年(1582年)であった。この年、主君であった織田家の当主・織田信長が家臣であった明智光秀に謀反を起こされ本能寺で横死する。これによって日本の勢力図は大きな変化を見せることとなる。いち早く信長の仇を取り、織田家家臣の中でその立場と発言権を上げた羽柴秀吉。そして古株であり筆頭家老であった柴田勝家。信長亡き後、この二人の関係性は時期を追うごとに険悪になっていき、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いが勃発する。

信長亡き後柴田側に付いていた前田家は戦いに参戦はしていたがすぐに戦線を離脱し、居城である府中城に戻っている。この利家の行動からは自身の立場が中立であるという無言の主張を感じ取ることができる。 この時点で利家は紛れもなく柴田勝家の与力(部下)であり、立場上秀吉とは敵対関係となり戦わなければならない境遇であった。しかしながら、上記した通り利家と秀吉、またまつとおねは若年の頃より親交が深く、何よりも娘である豪姫が養女として秀吉の元で暮らしているという経緯があるため、利家としても表立って秀吉と敵対することは本意ではなかったであろうことが容易に推察できる。

結果的に利家が戦線を離脱したことで戦局は秀吉側に傾く。そして秀吉は柴田軍追撃の途上、利家の居城である府中城に立ち寄りまつと話す時間を持ったと言われている。この時まつは夫の利家と息子の利長に対して秀吉に同行することを強く促したと言われており、秀吉の行動からその真意と戦局を冷静に判断した英断であったとの評価をされている。

徳川時代へ

慶長4年(1599年)、前年の秀吉に続いて夫の利家が死去すると、出家し芳春院と名乗った。慶長5年(1600年)徳川家康石田三成の関係悪化に伴い天下を二分する関ヶ原の戦いが勃発する。その直前、利家から後を継ぎ前田家の当主となっていた利長に徳川家から謀反の疑いがかけられてしまう。理不尽として家康との交戦を主張する利長を諌めたのが芳春院であった。芳春院は謀反の疑いを晴らすため、自ら人質として江戸に下ることを決断する。

芳春院のこの行動によって利長は関ヶ原に徳川方として参戦。弟である前田利政も揃って参戦する。兄の利長は、一度金沢城に引き返した後に再び出陣しているが、弟の利政は動きを見せなかった。利政が再出陣しなかった理由に関しては、本心では家康に従う意思がなかったとする説や妻子を人質に取られていたという説、石田方と密かに内通していたという説など様々な憶測がなされているが、正確な動機は不明である。

「天寛日記」の一説には兄の利長が弟の裏切りを徳川方に密告したかのような記述があるが事実関係は不明であり、兄弟の不仲を示すような具体的資料も存在しない。この結果的な裏切りによって利政の所領は没収され、その所領は兄の利長へ渡った。 芳春院は江戸にとどまり息子利政に対する恩赦や、娘婿である宇喜多秀家の助命などに奔走する日々を送る。しかし努力の甲斐なく最終的に取り付けたはずの利政の恩赦を反故にされると、体調を崩し京都で保養を余儀なくされる。所領である金沢へ帰ることができたのは1614年の長男・利長の死亡後であった。

1617年、金沢城内で死去。享年71。晩年まで前田家のために奔走・尽力した生涯であった。





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