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「千石堀城の戦い」秀吉の紀州攻めの一つ、和泉国・千石堀城での攻防。
──天正13年(1585年)

紀州攻略のはじまり

天正11年(1583年)、本能寺の変の後に織田信長の後継者となった豊臣秀吉は、紀伊の根来衆や雑賀衆などの備えとして中村一氏を岸和田城に配置した。中村は泉州内の寺社領没収を開始するのだが、紀伊を拠点とする根来衆(根来寺の僧兵集団)と雑賀衆(地侍集団)連合が反発、小競り合いから本格的な戦闘に至る。

信長在りし日は、根来衆・雑賀衆と友好関係にあったが、秀吉と織田信雄徳川家康らの間で起きた小牧・長久手の戦いでは、根来衆・雑賀衆連合が、徳川勢と組み大坂城を攻め寄せたことがある。これをきっかけに秀吉は、両者の存在を脅威とみており、手を打つ必要性を感じていたのだ。

根来衆・雑賀衆連合は、奪われていく寺社領を前に黙ってはいなかった。当初は寺社領没収の妨害を目指し、小規模な武力による小競り合いを挑むのだが、中村は怖気づくことなく没収を進めた。本格的な領有化の動きを目の前にした根来衆・雑賀衆連合は、天正12年(1584年)正月1日、中村の拠点である岸和田城と堺へ攻め寄せる。防衛に成功した中村は、6000名の兵力で根来衆・雑賀衆連合の拠点であった5ヶ所の支城を急襲、すると堺に向かっていた8000名の根来衆・雑賀衆連合部隊が取って返したため、双方が近木川を挟んで対峙した。この戦いの戦闘前半は鉄砲の打ち合いとなり、火薬が切れると槍同士での戦いへと発展し、最終的には中村氏の勝利で終わった。

千石堀城の攻防戦

根来衆・雑賀衆連合の動きに危機感を持ったのが秀吉である。当時、小牧・長久手の戦いにおいて織田信雄・徳川家康と対峙していたため、動きが取れない状態にあったが、両者との和睦を早期にまとめ、大坂城に取って返した。天正13年(1585年)3月1日、先発隊として羽柴秀次が3万騎を率いて出陣、その後豊臣秀吉は10万余騎を率いて出発、また大阪湾からは小早川隆景九鬼嘉隆の水軍が南下、岸和田城に入場すると迎えでた中村が、千石堀城攻撃を提案した。この城には1000人を超える鉄砲隊と弓の名手で知られていた城主大谷左大仁法印がおり、城を囲うように深い堀が張り巡らされていた。

千石堀城の戦い要所マップ

城攻めの大将秀次の軍勢に堀秀政筒井順慶、長谷川秀一らの手勢を加わっての戦闘では、正面にある大手門に取り付くことに成功、二の丸と空堀を越えて場内に入った。しかし本丸へ続く橋が落とされ、内堀も深いため、攻め手を欠くことになる。戦闘では根来衆・雑賀衆連合の300あまりの首級をあげたが、1000名の負傷者が出てしまう。小城攻めに手間取る戦況に秀吉自ら鉄砲を取って射撃するなど、士気高揚を目指したほどであった。誰もが長期戦の恐れを懸念した時、筒井順慶隊が放った火矢が城郭に火をつけ、保管してあった火薬箱に引火し大爆発が起きた。これをきっかけに勢いを取り戻した秀次が攻め寄せたため、場内の根来衆は壊滅した。

根来衆・雑賀衆による泉州の拠点崩壊

当時、泉州には根来衆の出城が13ヶ所あった。秀吉・秀次らは千石堀城を、細川藤孝や細川忠興蒲生氏郷らは千石堀城の主城積善寺城を、中村は畠中城を、中川秀次や高山右近らが沢城をというように同時期に複数の城攻めをしている。畠中城には地侍と農民兵らが頑強に抵抗したが、千石堀城陥落が知れ渡ると城を焼いて撤退した。鉄砲などの充実した戦力を有していた主城積善寺城は徹底抗戦するものの千石堀城と畠中城の落城に加えて、住職卜半斎了珍の仲介により和睦して開城、本丸に攻め寄せられた沢城は投降を申し出て開城、いずれの城内にいた根来衆と雑賀衆らは紀州のそれぞれの領地に引き上げていった。根来衆は紀伊北部を拠点とする独立勢力であり、泉州に13ヶ所もの領地を有していたが、わずか3日の戦いで失うこととなった。

秀吉は勝利の余韻に浸ることなく、根来衆の本拠地である根来寺へ進軍、この機会に紀州平定を考えていたのである。しかし根来寺を前にした時、すでに勝敗は決していた。根来衆や雑賀衆らは和泉の戦線に出払っていて不意をつかれた形になり、まともな抵抗もできずに陥落した。根来寺は出火し三日三晩燃え続けたという。さらに秀吉は間髪入れずに高野山攻め、紀南を拠点とする雑賀衆攻めを進め、紀州平定を実現し天下人としての存在感を強めていくことになる。





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