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「第二次太田城の戦い」秀吉の紀州攻めの一つ、秀吉得意の水攻めで攻略!
──天正13年(1585年)

背景

第二次太田城の戦いは羽柴秀吉による紀州攻めの一つである。紀州(=現在の和歌山県と三重県の南部)は京都に近かったことから、天皇や朝廷を崇拝し、それ以外の者を頂点とする文化等は認めないという断固たる考えがあり、そこには高野山を中心とする粉河寺と根来寺の寺衆、そして地元の警備隊である雑賀衆という集団が存在した。

こうした思想は天下を目指す戦国大名にとっては障壁でしかない。紀州攻めは、秀吉が行なう以前にも、かつて最も天下人に近かった織田信長が本願寺勢力との戦いですでに実行していたのである。信長は度々攻めるも制圧することはできず、天正6年(1578年)には太田城に攻め込んでいるが、攻略することはできなかった。(第一次太田城の戦い)

結局、天正8年(1580年)に本願寺勢力と信長が和平を結び、信長と親睦を深めていったが、本能寺の変が勃発したことで事態が一変することになる。

そもそも雑賀衆の中には、信長との和平に反対する者も多くいたわけである。その反織田派は信長死後に勢いづいて和平派を追い出し、自分たちの考えが正しいと集団をまとめていった。その後、秀吉が信長の天下統一事業を受け継ぐが、彼らは当然のごとく秀吉とも対立関係となる。こうして天正13年(1585年)に秀吉による紀州攻めが勃発となった。

当時の羽柴秀吉は中部地方と関東地方を治めていたこともあり、その軍勢は高野山の寺衆と雑賀衆を合わせて5千程度であるのに対して羽柴秀吉は10万近くと差があった。高野山の寺衆と雑賀衆は独自のルートで火縄銃などの道具を数多く要していたが、その戦力差を埋めるには至らず宇喜多秀家を中心とした軍勢が攻めたことで千石堀城を含む和歌山県の城や寺は落とされていったのである。

合戦の経過

第二次太田城の戦い要所マップ

そして紀州攻めで最も激戦といわれた太田城攻めが始まったのだが、高野山の寺衆と雑賀衆は地理地形を熟知しているため直線的に進軍してきた羽柴軍の裏をかいて攻撃を仕掛け損害を与えることに成功した。戦上手で地理地形の重要性を知っている秀吉と黒田官兵衛は、このままでは損害が大きくなると考えて戦術を変更。太田城の周りは山と川に囲まれているだけではなく、土壌の水はけが悪いことを利用して堤防を作り、城に閉じ込めてしまう水攻めを決行したのである。

水攻めは狙い通りに進み、火縄銃などの遠距離武器が使えなくなったことで近距離での戦いを強いられたことで形勢は逆転した。羽柴秀長は水軍の将である小西行長を中心に船で進軍し、次々と太田城にいる兵隊を倒していったのである。形勢逆転されたことで攻めから守りに転じる籠城を行ったが、それも増水する環境では意味をなさなくなりやがて兵糧も限界を迎えた段階で勝負は決した。

その後の影響・まとめ

太田城が落城した後は高野山の寺衆と雑賀衆は完全に力を失い、残った反対勢力は最後まで小競り合いをしたが圧倒的戦力差を覆せるわけがなく降伏した。これで羽柴秀吉は関西地区で厄介なポイントだった和歌山県を平定したことで、その後政治の中心地である京都で手腕を発揮し見事全国統一を成し遂げることになったのである。
その際に今後農民が戦をさせないようにするために、最低限の農耕器具は返したが武器となりうるものはすべて取り上げた。これが豊臣秀吉の代名詞と現在に語り継がれる刀狩りの始まりであり、その結果として治安が悪かった和歌山県で暴動が起きなくなったことに味をしめた豊臣秀吉は本格的に刀狩りとして全国に波及させ戦をさせないようにしたのである。

しかし、刀狩を命じたことで農民の力をそぐことに成功したが、その代わり治安を維持するために江戸時代末期まで続く武家が台頭する武家社会がこの時から始まった瞬間でもある。ただ武家社会になったことで治安はある程度守られたが、それが逆に各地の武家の大名たちが独自に力をつけていくことになった。朝鮮出兵で孤立無援で失敗をし不平不満を抱いた各地の大名は、その独自に付けた力を豊臣家ではなく家康軍に味方することで活用した。この治安を守るために行ったことが、皮肉にも豊臣家存亡にかかわることになったのである。





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