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「バテレン追放令」秀吉、キリシタン追放の政策をとる!
──天正15年(1587年)

バテレン追放令を出した背景

天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉は長崎のガスパール・コエリョに謁見して文書を直接渡し、キリスト教の宣教制限を表明。これがバテレン追放令であり、その内容はキリスト教宣教師の国外への退去と南蛮貿易の自由を宣言するものであった。この文書の原本は長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されており、松浦家文書に指定されている。

秀吉がなぜバテレン追放令を発したのかについては諸説があるが、有力なものとしてはキリスト教が日本中に浸透していけば一向一揆以上に強力な敵になりかねないと危惧したことが挙げられる。

秀吉は同年の九州討伐のときに多くの領民だけでなく大名までキリシタンになっている状況を目にしている。もし彼らが一致団結して反乱を起こせば由々しき事態になると考えたのだ。これはルイス・フロイスの『日本史』に書かれていることである。また、秀吉の九州討伐のときに当時イエズス会準管区長だったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊を自身の指揮下にあるかのように誇示したことも背景として挙げられるだろう。

ガスパール・コエリョは大砲を積んだ艦隊を博多で秀吉に見せただけなのだが、秀吉にとってはこれは脅威以外の何物でもなかった。当時西洋の艦隊のような船を作る技術が日本にはなかったから、なおさらそうだ。他にも、キリシタンによる神道や仏教への迫害も背景として考えられる。九州では領民に対して強制的にキリスト教徒になるように改宗を迫ったり、神社仏閣を破壊するなどの行為が行われていた。

バテレン追放令の内容

バテレン追放令は宣教師の国外退去だけでなく貿易の自由も謳っている。ただ単に外国人を排除する目的で発布されたわけではなく、あくまでもキリスト教の布教を防止する目的だった。そのため、キリスト教の布教を行わない外国人の商人の渡来は制限せずに、南蛮貿易は自由に盛んに行われていた。これは南蛮貿易がもたらす経済的効果を秀吉が考慮してのものだろう。
また、日本人が自発的にキリスト教に改宗することは許されていて、これは大名も例外ではなかった。大名でも秀吉から許可をもらえばキリスト教徒になることはできた。キリスト教そのものに強硬な禁教を実施すると貿易にまで影響が出てしまうと秀吉が考えたためだ。全体的に非常に緩やかな法令だったので、宣教師たちは実際に国外退去するわけではなく、平戸を中心に集まったり分散したりしていた。つまり、公然とした布教活動をやめただけであり、布教活動そのものは行われていたので、バテレン追放令は実質的には空文化していった。この状態は9年後のサン・フェリペ号事件が起こるまで続いていく。

その後の影響

バテレン追放令が出されたことで、宣教師たちは公然としたキリスト教の宣教活動を控えるようになり、熱心なキリシタン大名だった高山右近は、唯一秀吉から棄教を求められた。これは高山右近が棄教すれば他のキリシタン大名もそれに倣うと考えたためである。しかしながら、右近は自身の領地と財産をすべて捨ててもキリスト教信仰を捨てなかった。同じキリシタン大名だった小西行長は右近を保護して小豆島や肥後国に隠れて住まわせている。





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