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「九戸政実の乱」一揆は単に奥州仕置軍への反発だけではなかった!
──天正19年(1591年)

乱の背景

九戸政実の乱は、奥州仕置を実施する豊臣政権に対し、天正19年(1591年)に九戸政実が起こした反乱である。九戸氏は南部氏の分家の一つで南部家の中でも有力な一族であり、首謀者の九戸政実は勇将として知られていてさまざまな軍功を立てている。一揆の背景には、かつて南部一族に起きた後継者問題がくすぶっていた。

時を遡るが、南部氏では天正10年(1582年)に南部宗家の当主・南部晴政が没すると、後継者を巡って家中はで分裂し、南部信直を支持する者と、政実の弟・九戸実親を支持する者とに分かれて対立することに。結果的に半ば強引に南部信直が後継者となったことから、政実は信直に不満を持ち続けていたのである。

そんな状況の中で、天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原征伐に続いて奥州仕置を行なった際、南部家は7ヶ郡の領地を拝領されるとともに、秀吉の朱印状で信直が公的に南部氏宗家として公的に認められた。こうしたことから政実の不満が一気に爆発。翌天正19年(1591年)年に5千の軍勢とともに挙兵したのである。

乱の経過

政実は同盟関係の七戸城主の七戸家に働きかけ、南部信直に与する各拠点を次々と攻め立てていく。これに信直は北氏や名久井氏らに援助要請して防戦するが、もともと精鋭揃いであった九戸政実軍の勢いは強く、信直はたまらず秀吉に救援要請をしたことに。そこで秀吉は豊臣秀次を総大将とする軍勢を組織する。そして、白河口では徳川家康の代理井伊直政軍が加わって、仙北口では上杉景勝大谷吉継軍が加勢して、津軽方面では前田利家軍が、相馬口では石田三成軍が召集された。さらに、これらの武将たちの指揮下に伊達政宗、最上義光、津軽為信らが入り、蒲生氏郷浅野長政も合流することになった。

秀吉は彼らに各方面から九戸軍を攻撃させていき、政実はこうした各地からの襲撃に大きな打撃を受けることに・・。豊臣軍に対抗すべく、奇襲やゲリラ作戦を実施していくものの戦力差は明らかで、9月1日には九戸城で籠城戦をとることになる。

九戸政実の乱の要所マップ

九戸城は西側、東側、北側が河川に囲まれた天然の要塞で陥落が難しいとされている城だったが、豊臣軍60000人が九戸城の四方をすぐに包囲した。九戸政実はこの包囲攻撃に対して少数の兵士で防戦するも、城兵の大半が討ち取られる結果になった。浅野長政が「開城すれば助命する」という降伏条件を提示して説得し、九戸政実はこれを受け入れて降伏した。

その後の影響

九戸政実の乱の後、九戸政実は助命するという約束を反故にされて三ノ迫で斬首処分に。享年56だった。そして、政実だけでなく九戸実親をはじめとする城内にいた者はすべて惨殺されることになった。このとき浅野長政は助命するつもりだったが、総大将の豊臣秀次が殺すことを強く主張したために処刑になったともいわれている。

結果的に九戸一族はほぼ滅亡の運命だったが、政実の弟・中野康実だけは九戸城の包囲戦のときに道案内をした功を認められ、生き残ることを許された。その子孫が後に盛岡藩南部家の御三家の1つとして続いていくことになる。ちなみに、斬首された九戸政実の首は家臣が密かに奪って、九戸神社の近くの山の中に埋めたという伝承が残っている。それから、九戸氏の残党が多く残っていたことから、豊臣秀吉の命令で蒲生氏郷は九戸城を改修して南部信直に渡した後、本拠地を浅野長政とともに南方に移した。信直もまた南部家の本城の三戸城から九戸城に本拠地を移してこの地を統治することになった。この反乱の後、豊臣秀吉政権に反抗する武将は局地的なものを除けばほとんどいなくなって、天下統一をよりいっそう推進していくことになった。このことから九戸政実は「豊臣秀吉の天下統一の最後の相手」、九戸政実の乱は「天下統一の最後の戦い」ともいわれることがある。





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