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「サン=フェリペ号事件」船員の一言が、秀吉によるキリスト教徒迫害のきっかけか。
──文禄5年(1596年)

スペインのガレオン船
サン=フェリペ号というのはスペインのガレオン船のことを指す。このサン=フェリペ号が日本の四国に漂着し、船員と豊臣政権側とのトラブルをきっかけに、秀吉が再び禁教令を出し、キリシタンを迫害するまでに至ったという一連の出来事が「サン=フェリペ号事件」である。

事件の背景

天正15年(1587年)豊臣秀吉は突如バテレン追放令を出してキリスト教の布教を禁止した。

元々、秀吉はかつての主君・織田信長の政策を継承し、キリスト教の布教活動を容認していた。前年にはイエズス会宣教師ガスパール・コエリョと謁見して布教の許可証を出している。しかし、九州征伐を終えた秀吉は、実際に筑前国の箱崎に滞在して長崎が実質的にイエズス会の領地になっていることが分かると、イエズス会に脅威を覚えた秀吉は、ポルトガルの通商責任者・ドミンゴス・モンテイロとコエリョに先の文書を手渡した。

バテレン追放令が出される前、「天正十五年六月十八日付覚」が秀吉により認められている。その中ではキリスト教徒になるのは個人の信仰問題で、大名が領地の農民に入信を強いるべきでないと書かれている。大名が領地を治めるのは一時的で、交代することもあるとも記されていた。それに対して、農民は交代することがないので、大名の信仰にならう必要がないというものである。

また、キリスト教徒の動向にも言及されており、一向宗の信者以上に策略家であるとしている。一向宗の信者は寺領に国群を置くことで領地の大名への年貢を免れており、さらに領地の大名を追放して一向宗の僧侶が代わりに領地を支配していると指摘している。つまり、キリスト教徒も一向宗のようになると懸念しているわけである。

バテレン追放令の後も、南蛮貿易の実利が重視されたので、秀吉が黙認する形で宣教師たちは活動を続けていた。追放令は布教活動を禁じたもので、キリスト教の信仰自体は禁止されていなかったのである。
そのような状況下で、秀吉の天下となっていた文禄5年(1596年)にサン=フェリペ号事件が発生した。

サン=フェリペ号事件の内容

フィリピンのマニラを出向したサン=フェリペ号は東シナ海上で台風に遭遇。メインマストを切り倒すなど、船の損傷は酷いものであり、同年8月28日には四国の土佐沖に漂着し、知らせを受けた長宗我部元親によって浦戸湾内へ曳航された。船は湾内の砂州に座礁し、宣教師と船員たちは長浜に留め置かれることになった。

サン=フェリペ号の船長は秀吉の元に数名の使者を送り、船の修復許可と保全を求めたが、秀吉は使者に会うことはなく、代わりに奉行の増田長盛が派遣された。長盛は秀吉の命により、船員たちに名簿と積み荷の一覧表を作成。その際、「スペイン人たちは海賊で、日本を武力制圧しようと測量に来たことを、都にいるポルトガル人などから聞いた」という秀吉の文書を伝えると、船員らはこれに反論してトラブルとなり、結局積み荷と船員の所持品は全て没収となった。

船員らは抗議して「日本もそのうちスペインに征服される」と受け取れる言動をしたといい、これらの経緯は秀吉に報告された。その直後の12月8日には天正に続く禁教令が再び出されて京都や大阪の宣教師らが捕らえられた。その際に日本人の信徒も20人が捕まり、合計26人が長崎で処刑されたのである。この時の26人が "日本二十六聖人" と呼ばれる人々である。

再び禁教令が出された理由

秀吉が禁教令を出したのは、キリスト教の勢力が拡大して一向一揆のような反乱を起こすことを恐れたためと言われている。その他、キリスト教徒が神道や仏教の信者を迫害したため、ボルトガル人が日本人を奴隷にしているため等、複数の理由が考えられているが、真相は定かではない。

そうした中でも直接的なきっかけとなったのは、イエズス会準管区長・ガスパール・コリョの出過ぎた言動とされている。彼は九州征伐を終えた秀吉にスペイン艦隊を見せ、それが自分の指揮下にあるかのように誇示した。当時の様子を同時期に訪れていた東インド管区巡察師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノが書き残しており、その中でコリョの軽率な行動を厳しく避難している。

サン=フェリペ号はサンフランシスコ会修道士が捕縛されたので、船員たちが修復の許可を得ることになった。その結果、秀吉から船普請の許可が下り、翌慶長2年(1597年)に浦戸を出航し、マニラに到着して事件の経緯がスペイン政府に報告された。船長のランデーチョらが証人として喚問され、事件の詳細が述べられた。 その後、スペイン使節としてドン・ルイス・ナバレテらがマニラから秀吉の元に派遣された。その際にサン=フェリペ号の積荷の返還と、処刑された宣教師らの遺体の引き渡しが求められたが、秀吉はこれに応じなかったようである。





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