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「前田利長」利家死後、家康の前田討伐という難局を乗り越える!

前田利長の肖像画
加賀百万石で名を馳せた前田利家の長男として知られる利長。父とともに織田信長や豊臣秀吉に仕え、父の死後まもなく加賀百万石を成し遂げた彼の生涯を追う。

利長誕生・信長時代

利長は永禄5年(1562年)前田利家と おまつ(のちの芳春院)との間に長男として生を受ける。幼名は父利家と同じ「犬千代」を称した。

この頃の利家は、織田信長に仕え、ちょうど出仕停止処分が解けたころでだろうか。
かつて利家は信長が贔屓にしていた茶坊主・拾阿弥と揉め事を起こして斬殺してしまい、信長の怒りを買って出仕停止処分を受けていた。この処分を解除してもらうため、利家は永禄3年(1560年)桶狭間の戦い永禄4年(1561年)の森部の戦いといった合戦に無断参戦して功績を積み上げ、ようやく帰参を許されたのである。
この当時は利家の出世によって前田家がのちに加賀百万石になるとは想像もつかない状態であり、そもそも家督は利家の兄・利久が継いでいると言う、利家から見たらまさに駆け出しの時代だった。息子の利長はここから、父と共に加賀百万石を築いていくことになる。

利長は父・利家同様に信長によく仕えた。最初は安土城で信長に召し抱えられていたのだが、天正9年(1581年)には利家の旧領であった越前国府中を分け与えられ、信長の四女・永姫を正室に迎えることになる。 一方、利家の方は順調に武勲を重ねていたこともあり、同年、能登国主として20万石以上を有する大名となった。親子ともに信長の下で出世を遂げつつあると言う時期である。しかし、この順風満帆とも言える状況は、翌天正10年(1582年)に風雲急を告げことになってしまう。戦国史において最も重要な事件の一つ・本能寺の変が勃発したのである。

利長は当時20歳であったが、正室となった永姫は若干7歳である。両者は本能寺の変が起こる前に、信長によって本能寺に呼び寄せられた旅の途中にあり、事件当時2人は滋賀県に滞在していた。事件が起きた後、利長は永姫を逃して織田家と行動を共にしたと伝えられている。

秀吉の天下取りに際して

信長の死後、重臣の柴田勝家と羽柴秀吉が信長の後継者の座を争うことになっていくのだが、利家・利長父子は信長生前のころと同じように自然に勝家配下となっていた。だが、利家は秀吉と旧知の仲と言うこともあって、両者の和議のために働いたようである。

しかし、結局この和議は成功に至らず、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いが勃発するに至った。この合戦は、織田家中が勝家派と秀吉派に別れ、信長が遺した織田家の覇権を巡って争うという凄まじいものである。武力と言うよりは、権謀術数の力が大きく勝敗を決めたと言えるだろう。合戦に先駆け、勝家は秀吉を出し抜くことを意図し、仮の和睦を結ぶために利家を含む武将を数名、使者として秀吉の側に派遣した。しかし、秀吉は不利を悟った勝家の考えを見抜いており、逆に使者たちを自身の側に招きこんだと言われている。

結果的に、利家は合戦の大事な局面で兵を撤退させ、これによって秀吉の勝利を決定づけた。のちに利家・利長父子はともに秀吉の配下になったが、以後は猿と犬の間柄であった両者が足並みをそろえて、天下統一に向けて邁進して行くこととなる。

最大の窮地・加賀征伐への対応

やがて秀吉が天下を統一し、その下で着実に信頼を勝ち取ってきた利家・利長父子であったが、慶長3年(1598年)の秀吉死後には、徳川家康によってその立場が窮地に追いやられることになる。家康の天下取りのための術策が前田家を襲ったのである。

秀吉の晩年、徳川家康が豊臣五大老の筆頭に位置していたが、秀吉は豊臣家の将来を憂いて、万が一のときに家康に対抗できるよう、利家を家康と同じ五大老の筆頭格にした。秀吉死後、家康が専横をふるったこともあり、豊臣家中は家康派と石田三成ら反家康派に分かれて大きく対立。前田家が反家康の矢面に立たされることになってしまう。秀吉死後の家康の動きを嫌った利家の行動によって、前田家と徳川家の対立が決定的になっていたのだが、慶長4年(1599年)にはその利家も亡くなってしまった。家康にとっては天下に向け、豊臣方と対峙するための足場固めをする大事な局面であり、対する利長が極めて困難な立場に陥ったったことは想像に難くない。

家康は策を弄して、利長に徳川家への反目の疑いありと言う口実を作り出した。これを口実にその権力をふるい、発起したのが加賀征伐である。単なる前田家討伐と言うだけではなく、自身の権能を内外に知らしめる意図があったとも言われる。 利長はこれに対抗する意図を固めたが、芳春院・まつの説得などもあり、後に意思を変じて戦闘回避に奔走した。この行為によって前田家はなんとか存続し、慶長5年(1600年)関が原合戦などでは徳川方につくこととなる。

加賀百万石を達成!

関ヶ原での利長は、前田利政の背任行為で苦労したものの、なんとか功績をあげた。この事によって、のちに前田家は加賀・越中・能登併せて120万石を超える所領を獲得している。このように利長は利家の後を継ぐ形で加賀百万石を成し遂げたのである。これは日本最大の藩として有名であり、その偉業の大きさが窺えるだろう。有名な兼六園が利家の庭だったと言う逸話もあり、現代でも彼らの成し遂げた功績を目のあたりにすることが出来る。

利家とまつのように、利長は永姫と仲が良くおしどり夫婦であったが、とうとう男子には恵まれずじまいで、前田の家督は利長の弟である前田利常が継ぐことになった。前田利常には一旦前田家を離れていた本多政重が従い、藩を守ったそうである。利常に後を継がせた利長は、自身は隠居生活に入り、病によって慶長19年(1614年)に53歳の生涯を終えている。永姫の方は利長の没後、尼となって余生を送り、元和9年(1623年)に没した。





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