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【逸話】中国大返しで姫路城は素通り?
──天正10年6月(1582年)

天正10年6月(1582年)、備中高松城攻めの最中に本能寺の変を知った秀吉・黒田官兵衛らは、すぐに毛利氏と和睦し、信長の弔い合戦のために京都へ向かった。約200キロもの距離を秀吉の大軍団が移動したという、いわゆる「中国大返し」。これはその移動中のときの話である。

── 高松城~京都への道中にて ──

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

殿!姫路に寄ることは少しの間ですら、よろしくはありませぬ。

秀吉

うむ。しかし・・・。

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黒田官兵衛アイコン

官兵衛

かりそめの旅でも家をでるのは遅れがちになってしまうのが人情というもの。今回は信長公の敵討ちのための行軍でございます。
筒井・細川といった明智と親交のある者たちが敵方に馳せ参じたならば一大事となりまする。

秀吉

そうじゃな・・。

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官兵衛

こうした連中が明智に与するかどうか迷いのあるうちに急ぎ、軍を進めるべきかと・・。

秀吉

さすがは官兵衛じゃ!よくぞそこまで考えてくれた。1人でも姫路に寄るものがおれば、誅しよう。ただちにこのことを皆の衆に伝えるのじゃ!

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官兵衛

ははっ!承知いたしました。

そして官兵衛は使者を呼び、手筈を整えていった。

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官兵衛

よいか?姫路には決して立ち寄らないよう全軍に漏れなく伝え、先に姫路に行って町人らに粥を支度させて待機させておけ!

使者

はっ!

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官兵衛は事前に人を走らせ、姫路の町人らに対して河原にでて粥を支度させ、兵士をもてなすように命じたのである。

姫路の町人たち

町人A:秀吉様一行が大勢でここへやってくるって?
町人B:そうらしいぞ。なんでも飯や肴などを河原で用意して待っていろとのことらしいぞ。
町人A:はあ?一体なにごとなんじゃろうかのう・・・。
その他大勢:がやがやがやがや・・・・・

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こうして姫路に着いた秀吉一行は姫路城には立ち寄ることなく、明智討伐へ向かったのであった。


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