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「奥州仕置」大軍で奥州の抵抗勢力を討伐。ここに秀吉の天下統一が成る!
──天正18年(1590年)

奥州仕置へ至るまでの流れ

織田信長が本能寺で討たれて以降、豊臣秀吉がその事実上の後継人として信長の天下統一事業を継承、そしていよいよ関東や奥羽地方の平定に着手し始める。

金山宗洗を使者として奥羽の諸大名のもとに派遣し、秀吉に恭順するよう交渉をはじめたのが天正13年(1585年)。さらに同年に四国平定、続いて天正15年(1587年)に九州平定を成し遂げると、同年末には関東・奥羽地方において惣無事令(私闘禁止令)を出している。これは既に関白となって事実上の豊臣政権を樹立していた秀吉が、残る奥羽の伊達政宗、関東の北条氏政を服属させるための措置であろう。

こうして翌天正16年(1588年)には最上氏や伊達氏など、奥羽地方の有力大名が次々と秀吉への恭順を誓った。ただしこの時点で、関東・奥羽の平定は確実なものとなっていない。というのも、秀吉が伊達政宗へ上洛を求めた直後の天正17年(1589年)には、政宗が上洛要請を早々に無視して蘆名氏の会津領へ侵攻しており、さらに関東を支配する北条氏も真田昌幸の所領へ侵攻する事件を起こしている。これら一連の出来事によって、秀吉による東日本への討伐軍派兵が決定的となった。

天正18(1590年)7月、豊臣の大軍による小田原征伐で北条氏を滅ぼすと、豊臣軍はそのまま北上して宇都宮城へ入った。ここで秀吉は関東や奥羽地方の有力大名を出頭させて、それぞれの処遇を決定した。これがいわゆる「宇都宮仕置」である。ところが宇都宮への出頭にも応じない、抵抗勢力の大名や領主がまだまだ数多く残っていた。そこでさらに秀吉は討伐軍を奥州へ進めることになる。これが「奥州仕置」へとつながっていく。

奥州仕置の開始

奥州仕置の要所マップ

秀吉は伊達政宗を先導役として討伐軍を宇都宮から北上させていった。途中で葛西氏の抵抗勢力を排除しながらも、同年8月には会津黒川城(現・会津若松城)への入場を果たす。ここからは秀吉側の奉行である浅野長政が指揮を取り、さらに進んで鳥谷ヶ崎(十八ヶ崎)城へと入城。ここでさらに諸将に号令をかけて奥州仕置軍を奥州平泉まで進撃させた。その結果、稗貫氏や和賀氏といった大名あるいは在地領主などは、ほぼ制圧されてしまった。さらに長政は家臣など配下を代官として占領地に配属し、人事の刷新や検地を急速に進めた。奥州地方の内政安定化が一段落すると、浅野長政らの討伐軍は任務を終えて撤退した。

ここにおいて秀吉の奥州平定が完了し、同時に天下統一も達成されたと言える。なお「宇都宮仕置」から「奥州仕置」までの一連の過程において、奥羽地方の大名や領主などの処分は次のように決定された。

まず小田原の北条氏征伐に参陣しなかった、葛西氏や大崎氏などの大名は改易。また伊達政宗に対しては、総無事令や上洛要請を無視して蘆名領へ侵攻したことで、減封処分が命じられた。その一方で、早い段階から秀吉に恭順し、小田原征伐でも積極的に協力した最上氏や南部氏らに対しては、所領安堵が言い渡された。また改易や厳封となった後の領地には、蒲生氏郷や木村吉清といった秀吉の重臣が入って、直接統治することになった。

奥州仕置の影響

奥州仕置は順調に終えたように見えたが、実は仕置後こそ大きな混乱をもたらした。豊臣政権下の新体制への強引な移行のせいで、奥羽各地に残存する旧勢力の家臣や領民、さらには所領安堵された大名でさえも、新政権への不満を導いてしまったからだ。

その結果、10月には、改易された葛西氏や大崎氏の旧臣が中心となって、葛西大崎一揆が発生してしまう。またこれに呼応するかのように、和賀・稗貫一揆や仙北一揆などが、奥羽各地で次々と起こった。さらには、奥州仕置で所領安堵された南部氏への不満から、同じ一族の九戸政実が挙兵する事態にまで発展する。これが九戸政実の乱である。このような奥羽地方での度重なる混乱により、秀吉は再び討伐軍を派遣せざるを得なくなった。

まず10月には、大谷吉継上杉景勝およびその旗本1万2千騎が出動して、仙北一揆が鎮圧された。また翌天正19年(1591年)の7月には、秀吉から命じられた政宗をはじめ、その援軍である豊臣秀次徳川家康らによって、葛西大崎一揆が鎮圧された。そして一族同士の内乱にまで発展した九戸政実の乱に対しては、豊臣秀次を総大将とした3万の兵の他に、家康や前田利家などの有力大名が討伐軍に加わり、なんとかこれを鎮圧。実に1年以上にもわたる内乱が、ようやく収束したのだった。

このように奥州仕置後も、豊臣政権へのスムーズな移行は、実際には果たせなかったのである。





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