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「小牧・長久手の戦い」秀吉 vs 家康。両雄唯一の大激突!
──天正12年(1584年)

合戦の背景

小牧・長久手の戦いは、天正10年6月(1582年)織田信長が本能寺にて明智光秀に討たれたことに端を発する。(本能寺の変)
その光秀を討ち、織田家中で台頭した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、天正11年(1583年)には柴田勝家や信長三男の織田信孝らを自害に追い込み、織田家の実権をほぼ掌握した。(賤ヶ岳の戦い

織田家の後継者を狙っていた二男の織田信雄は、秀吉に加担していたものの、秀吉が織田家を掌握するのは不満だったのだろう。 戦後、信雄は北伊勢・伊賀を加増されるも、秀吉に安土城から退去させられたことで、両者の関係が悪化することに──。

天下を狙う秀吉にとっても信雄の存在はジャマでしかなかったようだ。秀吉は信雄の家臣で親秀吉派の三家老を懐柔しようとする動きを見せている。一方、信雄は徳川家康を頼り、そして天正12年3月6日(1584年)には秀吉に内通した疑いで三家老を処刑した。

これが決定打となって両者は決裂。秀吉は激怒して信雄・家康に対して軍事行動を起こし、尾張北部を中心に、美濃・伊勢・和泉、さらに北陸・四国・関東でも両陣営の対立が勃発、全国規模の合戦へと発展することになる。

合戦の経過

同年3月13日、織田陣営に味方するとみられていた織田家代々の家臣・池田恒興が、突如秀吉側に寝返り犬山城を占拠した。同日に清洲城へ到着した家康は、この報を知るやすぐさま小牧山城へと向かい、15日には到着して対抗する。
翌16日、恒興に呼応する森長可が羽黒に陣を敷いたことを察知した徳川軍は5千の兵を出し、17日の早朝に奇襲をかけた。(羽黒の戦い)。この戦いで敗れた森勢は300人余りの戦死者を出して敗走した。

3月18日に小牧山城を占拠した家康は、土塁や砦を構築して羽柴の軍勢に備える。これに対し秀吉は、21日に3万の軍勢を率いて大阪場を出立し、27日に犬山城に到着、両者は小牧にて対峙することとなる。

戦況は膠着状態が続き、双方が出方を伺う中、4月4日には池田恒興が家康の背後の三河を襲うことを具申する。これを許可した秀吉は、池田・森を含む4隊2万を数える部隊を編成し、6日に出発させた。
この動きを察知した織田・徳川陣営は、兵を二手に分けて敵を各個撃破する方針を固め、まずは羽柴秀次率いる後ろの第4隊を攻撃すべく、9日に小幡城から出発する。同日未明には、池田率いる第1隊が岩崎城の戦いにおいて攻城戦に勝利したものの、その最中に白山林にて休憩していた第4隊が徳川支隊に襲撃されて壊滅。この知らせを聞いた堀秀政率いる第3隊は直ちに引き返し、桧ヶ根にて敵軍を返り討ちにする。これに対し、織田・徳川本隊は富士ヶ根に進軍し、突出した池田・森の部隊と後ろの堀の部隊を分断。堀秀政は戦況が不利とみて撤退するが、池田・森勢は同日10時頃、長久手にて織田・徳川勢と激突となった(長久手の戦い)。

どちらも兵力は9千余りで戦況も拮抗していたが、森長可が狙撃されて討ち死にしたのを皮切りに、形勢は徳川有利に傾いた。 立て直しを図った池田恒興であったが、自身も永井直勝の槍を受けて討ち死にし、羽柴軍は潰走となる。羽柴側の戦死者は2千5百人に上ったのに対し、徳川側の被害は590人余りといい、この戦いに勝利した家康は小牧山に帰還したのであった。

全国各地で行なわれた戦い

同時期には、全国的に織田・徳川方と通じた武将が各地で秀吉陣営を攻撃し、包囲網が敷かれることになる。
伊勢方面では、羽柴秀長が松ヶ島城を開城させているが、森長可の討ち死にで手薄になった東濃には徳川が侵攻し、4月17日には明智城を奪還している。

また、和泉国において3月あたりから、秀吉の居ぬ間を狙って堺や大坂、岸和田城などを根来・雑賀衆や粉河寺衆徒が攻撃しているが、中村一氏と松浦宗清がこれを防いでいる。北関東では、5~8月にかけて北条氏直の率いる軍勢と、親秀吉の佐竹義重や宇都宮国綱といった武将の間で合戦が行われた(沼尻の合戦)。

四国では、長宗我部元親が6月11日に十河城を落とし、讃岐を平らげている(第二次十河城の戦い)。
この時、元親は家康から摂津や播磨への侵攻を持ちかけられている一方で、秀吉は小牧に居る間に大坂に帰るなど、元親の動きを警戒していることが伺える。

能登では、9月9日に家康と通じた佐々成政が末森城を陥落寸前にまで持ち込んだが、前田利家の反撃に遭って落城は成らなかった(末森城の戦い)。

その後も、蟹江城合戦や楽田城・岩倉城の戦い、戸木城の戦いなど、各地で一進一退の攻防を繰り返していたが、開戦から半年以上が経過した11月12日、秀吉は信雄に講和を持ちかける。
これに応じた信雄が、伊賀、及び伊勢半国を秀吉に割譲することを条件に単独で講和してしまうと、大義名分のなくなった家康は17日に三河へと帰還。秀吉は、割譲地を自陣営の大名へ与えるとともに、講和の使者を浜松城へと送り、家康は次男を秀吉の養子として大坂へ送ることで終戦となった。

合戦後の影響

秀吉と信雄がいち早く講和したことは、四国の長宗我部元親、紀州の雑賀・根来衆といった包囲網の瓦解を招いた。これを形成する軍勢は孤立し、それぞれ四国攻めや紀州攻めで平定されることになる。

また、引き続き秀吉への対抗を望む越中の佐々成政は、立山を超えて浜松の家康にその由を直接伝えに向かった(さらさら越え)が、その訴えが聞き届けられることはなかった。これにより、秀吉は天下統一に向けてその権勢をより一層確かなものにすることとなる。





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