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【逸話】四国攻め先鋒の黒田官兵衛、長宗我部の策を見破る
──天正13年(1585年)

これは天正13年(1585年)に行なわれた秀吉による四国攻めにおいて、黒田官兵衛が四国の覇者・長宗我部元親の策を見破った話である。

秀吉の軍勢が迫ろうとする中、長宗我部方は備えとして阿波国の白地城に本陣を置き、讃岐には植田城(=現在の香川県高松市)の構築をしていた。一方、秀吉から四国攻めの先鋒を命じられた官兵衛は、淡路から讃岐へ上陸すると、屋島で仙石秀久宇喜多秀家の軍勢と合流。官兵衛は植田の城を攻めようとして見分し、翌日の軍議で諸将に向かって次のように主張した。

── 讃岐国──

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

この国の敵将をみるかぎり、どうやらはかばかしい将はいないようだ。国中の支城などを落としたとしても、功をたてたということにはならぬ。

まずは阿波へ向かい、秀長殿(=この合戦での総大将。羽柴秀長)と話し合いの上、土佐方の兵を攻め討とう。阿波が落ちてしまえば讃岐の敵は戦わずとも、ちりぢりばらばらになるであろう。無用な場所に兵力を使っても無益なことだ。

家臣アイコン

諸将たち

将A:異議なしじゃ!

将B:わしも異議はない。さすがは官兵衛どのじゃ!

その他大勢:がやがやがやがや・・・・・

こうして皆が同意し、官兵衛一行は植田城攻めは行なわずに阿波国へ進軍することになった。

元親は本陣の阿波・白地城と讃岐・植田城の間に位置する由良山(=現在の香川県高松市由良町)に城を築き、おとりの兵を置いていた。

秀吉の大軍を植田のせまい場所に誘い込んで城を攻めさせることで、これを軍を分けて挟撃し、夜戦をもって勝利を得ようと企んでいた。

── 元親の本陣 ──

元親の家臣

申し上げます!宇喜多秀家、仙石秀久、それと黒田官兵衛ら合わせて数万の軍勢が阿波に入ったようであります。

家臣アイコン

長宗我部元親

なんだと?植田城攻めをやめたというか!!
・・・そうか、黒田官兵衛だな。

家臣アイコン

元親の家臣

??

家臣アイコン

長宗我部元親

宇喜多秀家ならば大軍の兵を頼って奢るであろう。また、仙石秀久ならば去年わが軍に負けておるから怒りにまかせて迫るであろう。

わしはこの2人の軍を植田城に誘い込む手筈だったのだ。

家臣アイコン

元親の家臣

では?まさか・・?

家臣アイコン

長宗我部元親

そうだ!黒田官兵衛という者だ!!

わしは阿波からでて方策をたて、軍功を世に知らしめて上方の面目にしようと計ったのが、黒田に見抜かれたということだ。

無念千万!

家臣アイコン

官兵衛は元親の武略を見抜いていたのである。





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