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【逸話】三成、関ヶ原敗戦で生け捕りのとき
──慶長5年(1600年)

※『名将言行録』『常山紀談』ほか

慶長5年(1600年)の9月、関ヶ原で敗れた三成は、近江浅井郡に逃れ、再挙を図ろうとしていたが、ついに田中吉政の家臣・田中長吉に捕らえられることになった。

-- 浅井郡脇坂にて --

田中長吉に捕えられたとき、三成は兄のことを尋ねた。

<a href='https://sengoku-his.com/hideyoshi/detail/565'>石田三成</a>アイコン

石田三成

兄の石田木工頭(=石田正澄)やその他の者がどうなったか知っているか?

田中長吉

木工殿は妻子を刺殺し、自らも潔く自害なさいました。

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石田三成

ふっ・・。ざっと済んだな。

そして次のように言った。

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石田三成

我らもこのように落ち行くことになったが、大坂城に何とか入ったならば、もう一度同じことをしたであろう。

と・・。やがて三成は井ノ口村に連れられ、田中吉政に引き取られての対面となった。

-- 井ノ口村にて --

吉政は三成に対して親密な様子で会釈し、言った。

田中吉政

こたびは天下分け目の戦で上方の諸将、数万の軍兵を率いられて戦ったことは、実に末代まで語り伝わることであろう。
敗れたのは本望ではないであろうが、軍の合戦の勝敗は天の命であり、後悔はしておられないであろう。

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石田三成

フッ。。秀頼様のために害を排き、太閤秀吉様の恩に報いようとしたのだから、運が尽きてこうなったことを何故に後悔するのか。

そう言うと、三成は貞宗の脇差を取り出した。

田中吉政

!?

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石田三成

これは太閤秀吉様より賜わった切刃政宗の脇差だ。形見としてそなたにお渡ししよう。

そう言って吉政に与えた。

三成はこのとき縄に掛かりながらも、田中吉政のことを、これまでと同じように「田兵」と、打ち解けた呼び方をしていたという。





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