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「蒲生氏郷」信長に認められ、秀吉には恐れられた!?

蒲生氏郷の肖像画
蒲生氏郷といえば、戦国ファンにはよく知られている武将だが、何といっても特徴的なのは、あの織田信長に気に入られていたことであろう。

信長にその器量を認められる。

氏郷は弘治2年(1556年)六角承禎の重臣・蒲生賢秀の子として生まれた。幼い頃の名前は鶴千代だったことでも知られるが「長生きして欲しい」という意味を込めて親が命名したことが推測される。

氏郷が織田信長に気に入られたのは、その目つきの鋭さに起因するといわれている。永禄11年(1568年)の信長の上洛作戦の途次において、上洛を阻む六角氏が敗れて甲賀へ落ち延びると、父の蒲生賢秀は氏郷を人質として信長に差し出し、父子ともども信長に仕えることに…。
当時の信長は天下布武を掲げて着々と自身の勢力を強めている最中であった。少しでも自らにとってプラスになることであれば、利用したいと考えていことも容易に推測できることといえるだろう。

元服の際に、信長自ら烏帽子親を務めたというほどに気に入られていた氏郷は、永禄12年(1569年)南伊勢大河内城の戦いにて14歳で初陣を飾ると、戦後には信長の次女・冬姫を娶り、その地位を確固たるものにした。
氏郷は冬姫との間に子供3人をもうけた。当時の3人というのは比較的少なめといえる。氏郷はとにかく忙しくて子作りに励む時間がなかったといわれる。なお、この頃の氏郷が岐阜で儒教や仏教などの学問を学ぶことができたのも、信長のおかげであることはいうまでもない。

本能寺の変と氏郷

その後の氏郷は信長の下で、元亀元年(1570年)からの浅井・朝倉攻めや、天正3年(1575年)長篠の戦い天正6-7年(1578-79年)有岡城の戦いなど、多くの戦いに従軍して武功を挙げていった。

そうした中、天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発して信長が横死。このクーデターの首謀者はいうまでもなく明智光秀である。

氏郷はこのとき、父とともに安土城の信長の一族を保護し、その中には信長の正妻・濃姫もいたともいわれる。その後は居城の日野城へ戻り、光秀との戦いに向けて戦支度をしたというが、自らを可愛がってくれた信長が光秀に殺されてしまったことを考えると、光秀に敵意をもつのは当然のことであろう。

その後、光秀は羽柴秀吉と山崎の戦いに敗れ、逃げ延びる途中で死去。一方の氏郷は同年中に父から家督を譲られて蒲生家当主となり、さまざまな決断を迫られることになる。

豊臣政権下の氏郷

信長死後の清州会議を経て、氏郷は秀吉に従うことになる。

天正11年(1583年)の秀吉と柴田勝家による賤ヶ岳の戦いには柴田方の滝川一益を攻略すべく伊勢方面に出陣、さらに翌天正12年(1584年)織田信雄徳川家康連合との戦い(小牧・長久手の戦い)にも参戦することに。
この合戦での氏郷は、同年5月の加賀野井城攻めなどで戦功をあげるが、8月に木造氏と奮戦した際には敵の狙撃を受けて、氏郷のトレードマークとして有名な「鯰尾兜」に相手陣の弾丸が3つも当たったという。戦後、氏郷は伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となり、三重に拠点を構えることになった。なお、この頃に大坂で洗礼を受けてキリシタンになったとみられる。

以後の氏郷は天正13年(1585年)の紀州征伐や富山の役などにも従軍、天下の趨勢が秀吉に傾いていく中で天正16年(1588年)に松阪城を築くと同時に城下町も作っていった。

やがて北条を滅ぼした秀吉は、その直後に天正18年(1590年)7月から8月にかけて奥州仕置を実施し、これをもって天下人となったが、このとき氏郷は伊勢から陸奥国会津へと移封・42万石もの大大名となった。これは奥羽の伊達政宗を監視するための措置であるが、秀吉が信長に器量を認められていた氏郷を警戒して地方に追いやったともいわれている。

氏郷が会津に入ってからは、領地の境界をめぐって政宗と度々対立したという。ここで氏郷と政宗にまつわるエピソードをひとつ以下に紹介しよう。

『常山紀談』によると、政宗は氏郷暗殺を企てて、清十郎という少年をスパイに表向きは小姓として送り込んだが、やがてその陰謀が露見した。清十郎は投獄されるが、氏郷は彼の伊達家に対する忠義に感服し、伊達家のもとに帰したという──。

最期

氏郷の人生を振り返る際にその厳格な性格もよく紹介される。北条攻めで小田原へ出陣したとき、鯰尾兜を部下に持たせて見回りしたが、その部下が所定の位置から離れていたので注意し、その後再び見るとまた離れていたため、その場で手討ちにしたというエピソードが残っている。
また、意外な一面かもしれないが、氏郷は茶人としても有名であった。あの千利休に師事して利休七哲の一人にも数えられ、その中でも筆頭だったという。利休が処罰されたとき、氏郷は秀吉に懇願して利休の息子の身柄を引き受け、自らの城で過ごさせたという話もある。

文禄元年(1592年)の文禄の役では、氏郷は肥前名護屋城へと参陣している。しかし、陣中で体調不良を起こしてしまい、翌文禄2年(1593年)年には帰国。その後も体調が回復することはなく、文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷で40歳という若さでこの世を去った。





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